「はあ……。義父は、もう長年、脳梗塞の後遺症でほとんど寝たきりですし……もう、治療はしなくていいと思いますが……」

「何か、ご本人が、そのような意思を書面で残されたりしていますか?」

「そういうものは無いんですけど……ちょっと、主人に電話していいかしら」

家族と菅平が救急救命処置を行うかどうか話をしている間も、刻一刻と、時間が過ぎていく。

「では、とにかく病院へ運びましょう」

菅平の指示で、救急車への収容を急ぐことになった。現場では、いつまでも活動方針を議論している時間は無い。心肺停止状態の傷病者は、何もしなければ……先に進まなければ、確実に死んでしまう。

「隊長、いまの傷病者……救命処置をするべきだったんでしょうか」

結局、特定行為といわれる救急救命処置は行わなかったものの、最低限の心肺蘇生、つまり、人工呼吸と胸骨圧迫だけを繰り返し、病院に搬送した。もともと傷病者の心臓が強かったのだろうか。胸骨圧迫に反応して、院内で心拍が再開したとのことであった。しかし、あのとき現場にいた家族は、延命処置を望んでいなかった。

「赤倉くん。あの傷病者は、もう生きなくていいと言っていたか」

「え……」

「もう少ししたら、息子さんが職場から駆け付けるだろう。家族との別れの時間を作ったことにも、少しは誇りをもっていいんじゃないか。その場にいた人が一番近い家族とも限らないし、何より、DNAR(Do Not Attempt Resuscitation:蘇生処置を望まない)指示書があったわけではないんだから、救急隊としては、救命処置をするのが仕事だろう」

「はい、今日は俺からだ」

岩原が、ポケットから缶コーヒーを取り出す。

「ありがとうございます」

重篤な傷病者を搬送したあとに病院の駐車場で飲むブラックコーヒーが、今日は一段と苦かった。

心肺停止状態の傷病者に対し、人工呼吸と胸骨圧迫を行うことを心肺蘇生といいます。

救急救命士は、医師の指示の下に、気管挿管や薬剤投与などの高度な救命救急処置を行うことができます。救急の現場では、心の準備ができていないまま、突然の心停止に陥ってしまった傷病者と遭遇することもあります。

時には、DNARの指示書を持っている傷病者もおり、そのような場合は、かかりつけ医と連絡を取り、対処を決めます。救急救命士は、明らかに死亡している場合を除き、死亡確認をすることはできないのです。

不慮の事故や死因が不明のまま亡くなられた傷病者は、警察官に引き継がれ、検死が行われます。そのようなシビアな現場に出場した後は、惨事ストレス対策が重要で、仲間同士で現場での気持ちを共有するデフュージングなどを行います。