コピーライターとして仕事を始めた三年後、世に出た作品が認められ、中堅制作プロダクションから大手広告代理店に転職。収入も大幅に増え、長男の謙佑が誕生。

当時、出店ラッシュを続けていたスーパー・ドジャースをメインのクライアントとして担当し、多忙な日々を送っていた。しかし、ドジャースの広告戦略は表現力は二の次で、恭平が望む広告賞が取れるような仕事には縁遠かった。それでも、何とか恭平なりの独自性を模索するうちに少しずつ評価は上がり、ドジャースの子会社として誕生した新しい小売業態のコンビニエンス・ストア、ロイヤルズの仕事も任されるようになった。

代理店における恭平の部署は制作局だが、クライアントであるドジャースの扱い高は群を抜いて大きく、営業部、マーケティング部、販売促進部などと共にチーム・ドジャースと呼ばれていた。

チーム・ドジャースの仲間たちは、同業スーパーとしてのナショナルズや、メッツなどの店に足を運び情報を収集する中で、恭平はナショナルズとその傘下のコンビニエンス・ストア、エンゼルスの広告戦略に好感を覚えていた。

その頃、高校時代のサッカー仲間である広島学園高校出身の土肥典昭と再会。土肥は二橋大学を卒業して白鳳堂に入社してコピーライターとなり、ソニーやサッポロビールをクライアントとして話題作を連発していた。高校、大学、広告会社と常に後塵を拝し、コピーライターとしての実績も水をあけられる己を自己憐憫しながら、土肥の恵まれた才能と環境と作品に嫉妬を覚え、自分の技量を棚に上げ不遇を嘆いていた。

転機が訪れたのは、三十歳の春。広島で小さな弁当屋の社長を務める父親が上京した際の些細な口論からだった。