【前回の記事を読む】元・優等生のチャランポランな人生。きっかけは父の自慢話!?

他愛もない転機

その場凌ぎと帳尻合わせ 《十一歳~三十歳》

六年生になっても学習委員を任命された恭平は、都合二年弱、ほぼ毎日、綱渡りのようなハラハラドキドキを繰り返していた。根が小心者の恭平は、自問自答することがあった。

「こんなに毎日ドキドキ心配するくらいなら、宿題をした方が余程ラクだなあ……」

そう考えながらも改心することを先送りして、毎朝ハラハラドキドキしながら学校に通い、朝の教壇に立っていた。先のことは考えず、目先の労を惜しみ、貪欲に恩恵を求め、横着なくせに見栄を張る、恭平のハラハラドキドキ人生はその後もずっと続いた。父親の自慢話から始まった「その場凌ぎ」と「帳尻合わせ」こそ、恭平のアイデンティティーの礎かも知れない。

二浪して、やっと恭平は大学に入学。

高校から始めたサッカーへの情熱は失せていたが、サッカー以外に自己主張する術もなく、入学後に覚えた麻雀の面子を求めてサッカー同好会に入会し、主客転倒した無為な日々を過ごした。高校時代からのガールフレンドとは、「Out of sight, out of mind」の例に違わず別離を迎え、後輩の紹介で知り合った広島出身の女性と付き合いを始めていた。

専攻課程に進んだ三年時、三島由紀夫の割腹自殺に衝撃を受け、他人の評価を必要以上に気にして生きている自分に愛想を尽かし、せめて一人でも、真の理解者を身近に得たいとの想いから結婚を決意。二十三歳の春に学生結婚。結婚後やっと、何を生業として生きて行くのか、遅まきながらも本気で考え始めた。

「俺は、何をしている時が一番幸せなんだろう?」

出した結論は、「モノを創っている時!」そして、「創った作品へのリアクションを得た時!」

そこから導き出した職業は、広告制作者。カタカナ職業として人気の高かったコピーライターを目指すと決め、久保田宣伝研究所のコピーライター養成講座に通い始めた。

学校の宿題とは一転、毎回与えられた課題に真剣に取り組んだ数々の作品は、百名余の受講生の中で常にベスト5に入る成績を修めていた。そして秋口には、養成講座からの推薦を受け中堅制作プロダクションに就職。翌年五月、二十五歳の誕生日の直後に長女の祥代が誕生し、恭平は父親になった。