【前回の記事を読む】正史として揺るぎない「日本書紀」の隠された完全犯罪とは!?

第一章 非力のレジスタンス

第一節 猛火の法隆寺

今から千三百五十年ほど前の天智天皇九年(六七〇)四月三十日、重大な事態が法隆寺を襲いました。陰暦の三十日といえば月が隠れるという意味の(つごもり)。月も見えない深夜、法隆寺で火災が起き、法隆寺は荒れ狂う猛火に翻弄(ほんろう)され、断末魔の悲鳴を上げていました。夜明け近くまで燃え続け、ようやく火が鎮まったとき、法隆寺の建物は一つ残らず焼け落ちていたと天智紀は伝えています。

その天智天皇九年(六七〇)四月の記述は次のとおりです。

夏四月癸卯朔壬申、夜半之後、災法隆寺。一屋無餘。大雨雷震。(原文)

(なつ)四月(うづき)(みずのと)()(ついたち)(みづのえ)(さるのひ)に、夜半之後(あかつき)に、法隆寺に(ひつ)けり。(ひとつの)(いへ)(あま)ること無し。大雨(ひさめ)ふり(いかづち)()る。(書き下し文)

すなわち、「天智天皇九年(六七〇)四月三十日の夜半過ぎ、法隆寺で火災があり、建物が一屋も余すことなく焼け落ちた。直後に大雨が降り、雷が大地を()るがすほど激しく鳴った」というのです。

世界最古の木造建築として知られ、世界遺産にも登録された法隆寺に、これほど壮絶な過去があったとは驚きです。陰暦の三十日といえば月もない不気味な夜、その漆黒(しっこく)の闇の中で法隆寺は紅蓮の炎に(もてあそ)ばれ、焼け落ちていったのです。(すさ)まじい姿を(さら)しながら、法隆寺はこの世から跡形もなく消え去ったというのです。

火災の直後には大雨が降り、大地を揺らすほどの激しい雷も鳴りました。まるで法隆寺が燃え尽きたことを嘲笑(あざわら)うかのように雷鳴が(とどろ)き、冷たい雨が降り注いだのです。何という仕打ちでしょうか。仏教が日本に伝わって百年余り、その仏教の黎明期にこれほどの大事件が法隆寺を襲っていたとは、ただ驚愕(きょうがく)するばかりです。

ところが、この法隆寺の火災に関する『日本書紀』の記事には、(いささ)か不可解な点があります。正史という真面目な歴史書に残された記述ではありますが、この派手すぎる記述をそのまま鵜呑(うの)みにして良いものでしょうか。