◎疑問1

ここには、「法隆寺」と記載されています。しかし、当時の寺は地名で呼ばれることが一般的で、法隆寺も地名によって斑鳩寺(いかるがのてら)と呼ばれていたはずです。その斑鳩寺が法隆寺と呼ばれるようになるのは、どんなに早くても天武天皇が「諸寺の名を定めた」とされる、天武天皇八年(六七九)四月以降のことであり、それより前の天智天皇の時代、この寺が法隆寺と呼ばれることはなかったのです。

このため、仮にこの法隆寺大火災の記事が原史料から転記されたものとすれば、その原史料には「法隆寺」ではなく、「斑鳩寺」と記載されていたはずです。それにもかかわらず、わざわざ天智紀に「法隆寺」と記載したとすれば、この記述が原史料からの転記ではなく、『日本書紀』編纂の過程で追記された可能性が感じられます。

ちなみに、同じ天智紀に、この大火災の前年、天智天皇八年(六六九)(この)(ふゆ)の条で、法隆寺のことを「斑鳩寺」と記しています。このことからも、右の「法隆寺」という表記には怪しいものがあります。

◎疑問2

また、「(ひとつの)(いへ)(あま)ること無し」という記述も不可解です。今日の法隆寺の建物を見れば分かるとおり、寺院の建物の柱や(はり)には太くて立派な木材が用いられています。

おそらく、天智天皇九年(六七〇)に焼失したとされる法隆寺の建物も、現在の法隆寺と比較して遜色のない立派な木材が用いられていたと想像します。そのような太い柱や梁が火災に()った場合、表面は黒く()げても内部は酸素欠乏のため、燃焼が芯まで進むことはありません。火災の初期には酸素が豊富で完全燃焼しますが、火勢が強まると一気に酸素欠乏に陥り、燃焼が太い木材の芯まで進むことはないのです。

たとえば、今日の火災では鎮火直後に消防署が火元を調べますが、出火当初は酸素が豊富で完全燃焼するという性質に着目し、焼け跡から完全燃焼した箇所を見つけ出して出火場所を特定します。つまり、どんな大火の場合でも、太い柱や梁は芯の部分が残るため、原状の骨格をとどめるものなのです。立派な寺院建築であれば「一屋も餘ること無し」と表現されるほど、(はげ)しい焼け方をすることは絶対にあり得ないのです。

加えて、寺は七堂伽藍といって金堂(こんどう)(とう)講堂(こうどう)鐘楼(しょうろう)経蔵(きょうぞう)食堂(じきどう)僧坊(そうぼう)などの建物が広い敷地に分散され、元から類焼する危険が小さくなるように配慮されています。それにもかかわらず、右のように法隆寺の建物群が一屋も余すことなく燃え尽きたとする記述は、事実を正確に伝える歴史書ではなく、むしろ特別な演出効果を目論んで、極端に誇張した表現を散りばめた歴史物語ではないかと疑わせるものがあります。