生きる勇気
井上靖
京都に行って間もなく、井上靖の『北国』と題した一冊の詩集に出会った。特に「瞳」という詩に魅せられた。
「七歳ごろであっただろうか。明るい春の、風の強い日。私は誰かに背後から抱いて貰って、庭の隅の古井戸を覗き込んだことがある。苔むした古い石組と生い茂った羊歯、ひんやりとする冷たい空気、地上から落ち込んだその方形の空洞の底には、動かぬ水が錆びた鐘のように置かれてあった。思うに、私の生涯に大きな関係を持つ何ものかが、初めて私の軀の中に入り込んできたのはその時であった(後略)」
私自身も誰かに抱かれて、古井戸を覗き込んだ気がした。詩の中に鮮烈なイメージが閃くように啓示され、私をとりこにした。詩とはこんなにも、人の心の奥底に届くものなのかと驚いた。
『北国』は、井上自ら「詩」ではなく詩が逃げないように閉じ込めた小さな箱にすぎないと語っているように、確かに散文的であり、独特の孤独と詩情が漂っているように思えた。『生涯』『人生』『シリア砂漠の少年』『野分』など、どの小さな箱の中にも私がいるような気がして、鷹ヶ峰の下宿で、毎日のようにこの詩集を読みふけった。細やかな詩の採集はこの頃から始まった。