思わずため息
午後は伊東さんの紹介で、国内でのスタインウェイ販売の牙城とも言うべき呉羽楽器商会に向かう。
伊東さんは、ピアノとの向き合い方に不満を感じているのか、二人が通う新高島ピアノサロンの話題にはあまり興味を示さず、「スタインウェイを選ばれるのなら呉羽楽器にいらっしゃい」と以前から勧めてくれていた。和枝と廉にしてみても、値段の誘惑にかられて新高島ピアノサロンに決めてしまう前に、呉羽楽器商会の手掛けるスタインウェイは見ておくべきだろうという考えはあった。
日比谷公園向かいのビルの地下一階、ガラス扉を押すとB型、A型、O型と四~五台ずつ美しく並んだスタインウェイ群が迎え入れてくれた。さっきの「倉庫スタインウェイ」に出会った時とは別種の興奮を覚える。
伊東さんの紹介で来た旨を告げ、誰もいない店内で和枝が次々試弾していく。思わずため息。どれもこれもいいのだ。新高島ピアノサロンでも亜細亜ピアノでもあり得なかった経験。スタインウェイ社の広告コピーは「Inimitable Tone(比類なき音)」というものだが、まさにどれをとっても「比類なき音」なのである。
この店で選定したら間違いなく迷いは深まるだろう。でもそれは嬉しい迷いであって、ここでなら安心して選べるということが、和枝の試弾ではっきりした。ただ、説明に当たった店員は高飛車で嫌な感じの男。「売ってあげます」と言わんばかり。
「ここでは買ってあげたくないな」。ずっと親切に接してくれた新高島ピアノサロンの成田社長の顔がちらっと頭の中をよぎった。年内にB型中古の販売会があるという貴重な情報を得て帰ってきた。
呉羽楽器商会でスタインウェイB型中古販売会の第一弾が行われたのは十月二十一日のことだった。
この日を含め年内三回開かれるが、各回一台ずつ登場する。スタインウェイピアノはドイツ・ハンブルクと、アメリカ・ニューヨークの工場で作られるが、呉羽楽器の提供する中古は大半がハンブルク工場製だ。
その特徴は、ドイツから新品の状態で輸入され、日本のユーザーの手元にあったものであること、そして比較的年代の新しいものに限られているということだった。
ドイツと日本とでは気候の差が激しいため、「ドイツで長く使われ成熟した楽器が、突如日本に連れて来られて個性を発揮できるのだろうか」という疑問に対する呉羽楽器の答えがそこにあるということだ。
できる限り新品に近い状態に仕上げてから売りに出すが、不要な復元は試みないのも特徴らしい。楽器の個性を尊重するため、くたびれてしまった部品のみを純正の新品と交換し、生き続けている部品には手を加えない。塗装も然りということらしい。