空振りの旅
「あ、ところで平林さん、こんな企画があるのですが」と成田社長はちょっと脇道に逸れ、この店で開催予定のイベントについて語り出した。
親会社の日本スタインウェイが全国規模で行うウラディミール・ホロヴィッツのピアノ展示会だった。二十世紀を代表するピアニストの一人であるホロヴィッツが一九三〇年代に、指揮者・トスカニーニの娘ワンダとの結婚記念に手に入れたニューヨーク工場製のフルコンサートグランドを、全国の加盟店に巡回させ、来店者にも試弾してもらうという趣向だった。
成田社長からは、これを新聞紙面で紹介してもらえないだろうかと打診があり、今度は新聞社勤務の廉の方が相談を受ける立場に回ることになった。地域ニュース紙面の編集セクションでデスクをしている廉は、クラシックファンのみならず一般読者にも届けたい話題と判断し、横浜総局のデスクと文化部の記者に取材を依頼した。
そして後日、神奈川県の地域ニュースのページにホロヴィッツの顔写真入りでイベントの前触れ記事が載ることになった。これに有頂天になったのだろう、成田社長は大きなプレミアムを提示してきた。「新品を購入していただけるのでしたら二割お引きします」というのだ。しかも選定は羽田にあるセレクションルームで好きな型の四台からじっくり選んでほしいと。
たとえば、この店で和枝の目に止まった新品のA型だったら、希望小売価格が九〇四万円だから七二〇万円ということになる。他店と比べるまでもなく、また常識で考えてもこれは破格値であり、この提案には、和枝も廉も瞬時に心をわしづかみにされた。
「早速案内してください、セレクションルームへ」廉は喉元まで出かかったが、隣の和枝の考え込む様子に気付き、はっと我に返った。今回の買い物では価格は確かに重要だ。だが選択肢がひとつの型の、しかも四台のみという選定会場で果たして音色への満足が確実に得られるのだろうか。最大の決め手について何ら保証がなかった。
セレクションルームへ行くということは即ち、そこに用意された四台の中から選んで購入する、という約束を交わしたことを意味する。成田社長は確かに心底親切な提案をしてくれていた。でも本来の議論をしないまま一生ものの買い物をするなんて、やはり無理。甘言にひょいひょい乗って行き着く先を間違えでもしたら元も子もないという自制心が土壇場で働いた。