スノードロップの花束

夫の太一は光学機器を製造する会社で技術職として働いている。物作りへのこだわりが強く、出世とは縁がないと言っているが、同世代や年下の上役に対して思うところはありそうで、愚痴をこぼすこともある。数年前、穂波が課長に昇格したと報告したときも「すごいな」に続いて「俺より給料高くなるんだろうな」と口を尖らせたかと思えば、「家のローンがあるから助かるけど」と苦笑いし、何ともモヤモヤした時間が流れたことを思い出す。取締役などと言ったら、太一も義父母もあきれて口をきいてくれなくなるだろう。

内線電話が鳴って、面談の予定を思い出した。入社三年目の設計課の女性からのセクハラに関する相談だ。セクハラ、パワハラ、メンタルヘルスの相談窓口は総務課で、セクハラに関しては穂波が相談を受けることが多い。男性が圧倒的に多い職場なので、セクハラということばが認知されない時代から、穂波もセクシュアルなからかい、理不尽な差別発言を当然のように浴びてきて、それらを受け流し払いのけることで自分を守ってきた。

訴えたいと思ったこともあったが、当時は相談窓口もなく、同僚に相談したところで「黙っていた方が利口だよ」などと諭された。セクハラの定義に対する理解が進んできたとはいえ、地方の企業、特に建設業界ではまだ男女の役割意識は根強くあり、女性が働き続ける環境が整っているとは言い難い。一方で、「何でもセクハラだのパワハラだの騒がれちゃあ、世間話もおちおちできないよ」とぼやく昭和のオヤジ管理職の気持ちもわからなくもないので、相談者に一方的に肩入れするスタンスでもない。

小会議室で向かい合った宇佐美麻奈は、つるんとした小顔に目鼻立ちのくっきりした、いまどきのアイドルに似た容姿だった。大学の建築科を卒業して二級建築士の資格を持っており、今年一級建築士の受験を目指している。設計課に所属する十名の建築士の中で女性は二名のみで、もう一名は三十代の既婚者なので、宇佐美は周囲から「うさこちゃん」と呼ばれ可愛がられているのだが。

「大体、うさこちゃんて何ですか」

のっけから宇佐美は戦闘モードに入っていた。

「ちゃん付けは男性も女性もダメって言ってるんだけどね。でも結構かわいい呼び名だと思うけど」

「幼稚で最悪です。私を一人前の社員として扱っていない証拠です」

「課長から皆に注意してもらうように言いましょうか?」

「新藤課長ですか? あの人が諸悪の根源です」

「あら、そうなの?」