和枝は仙川にキャンパスがある音楽大学のピアノ科出身だった。演奏家としての名声を求めバリバリ進んでいく技巧派タイプではなく、競争の世界からは少し距離を置き、自身の音をじっくり練り上げていくタイプのピアニストなのではないかと廉は勝手にイメージしていた。
現実には和枝が、卒業一年後に「よこはま音楽コンクール」でモーツァルトのソナタ14番を弾いて一位を獲ったことは知っていたが、廉のイメージはあくまでも求道者的なピアニスト像だった。そしてそういう人の演奏を、この先も傍らでずっと聴いていきたいと思った。
翌日、和枝から二次予選通過の知らせがあった。
本選は三週間後、大阪フェスティバルホールで開かれ、和枝を含め十人が舞台に立った。
その日の夕方、仕事中の廉に大阪の和枝から電話が入る。
「うーん入賞はなかった。まあ、入選できただけでも褒めてください」
笑って通そうとしたようだが、涙で声が途切れた。大阪と東京の距離を、廉はもどかしく思った。和枝は柔らかいタッチでピアニッシモの感触を何度も何度も試していた。そう、ここは浜風ホールではなく中野坂上のベーゼンドルファーのショールームだった。音を聴きながら、美しく交差する弦の配列を見ているうちに、廉は彼女と出会った頃の記憶にどっぷりはまっていた。
きょうはショパンの幻想ポロネーズをメインに試弾していた和枝だったが、ものの二十分ほどで四台目のピアノから離れると「うん、どうもありがとうございました」とあっさり店員に挨拶していた。
「え? え?」廉の方がどぎまぎしてしまう。
「あのベーゼンドルファーだよ。もういいの?」
「いいのよ。ホールで、しかもコンクールという特殊な状況で出会ったからベーゼンドルファーは特別な楽器だと思い込んでいただけ。それももう昔の話。いま弾いてみてはっきりした。とっても美しい音が出るけど私には向かないわ。これだったら、慣れ親しんだ国産メーカーのピアノの方がわかり合えるかな」