加持惣右衛門とは代々用人を拝命している家柄の惣領の名前である。現惣右衛門は、新宮寺家の部屋住みであった三男坊の司が、加持家に養子に入って名を継いだ。
十年前、前加持惣右衛門が江戸藩屋敷で起こった公金紛失事件の責を問われて、用人職を追われ、国元に移住して来て間もなくに、暴漢たちに屋敷を襲われ、美月という娘一人を残して皆殺しになるという藩始まって以来の凄惨な事件が起きた。加持家皆殺し事件である。そのとき、たまたま道場からの帰りが遅くなって通りかかった司が、屋敷外に逃れてきた美月を助けたのだ。
事件は、当時、筆頭家老であった都野瀬軒祥の惣領息子の祥之介が起こしたものだった。祥之介は自分が江戸で起こした不祥事を隠そうとして、江戸から移住してきた加持家一家を、弟の祥次郎に言い含めて襲わせたのだ。祥次郎は仲間の三又鐘四郎と、そのとき江戸から遊びに来ていた祥之介の仲間二人も加わり犯行に及んだ。
しかしながら、襲撃者の江戸者の一人は、美月の姉に太ももを切られ、出血多量で落命し、もう一人も美月を追いかけて外に出たところを、行き合わせた司に一刀両断された。その後、加持家の襲撃時に顔を見られたかもと疑心暗鬼になった三又鐘四郎が司を待ち伏せして闇討ちにかけたが、相手を侮っていた鐘四郎は返り討ちとなった。
事態が不利と悟った祥次郎は自決して、結局、襲った者たち全員が死んだ。加持家への襲撃で見張り役をしていた祥次郎の付き人の渡六郎平は、祥之介の伝つ手てで江戸まで逃げたが、遂には捕まって問い詰められ、加持家襲撃の首謀者は祥之介だと証言した。それを聞いた美月は敵討ちを請願し、司の助けを借りて祥之介を打ち果たすのである。
これが切っ掛けで、藩主義政が司を美月と娶めあわせて加持家を再興させ、近習に取りたてた。その後、岩淵郭之進が惣右衛門の気働きが気に入り、用人見習いとして引き抜いたのである。
加持惣右衛門は自分が司と呼ばれる部屋住みのときに起きた事件を振り返った。そのときは夢中だったと思うと同時に、いまの自分があるのは、決して自分一人の力ではなく、たくさんの人と出会い、それらの人たちのおかげだったと感慨した。将にその通りなのだ。
加持惣右衛門は青山新左衛門の護衛役で藩主義政侯の剣術の相手役をしている和木重太郎を思い浮かべた。立ち会いを見ていれば、重太郎が謹厳実直な青年であることがわかる。
重太郎は、義政に相手を攻めるのではなく、受け続けることを指南したという。攻めるとなると動作が大きくなるが、受けるだけなら動作が小さくて済むからだ。いままでの指南役にはなかった指導だった。それが新鮮だったのか、義政は、毎日の稽古を欠かさなくなった。重太郎の腕と人間性は間違いない。
だが、問題は重太郎の剣術以外の資質で、いまのところ、政(まつりごと)など何もわからぬということはわかっている。とにかく教育してみて、本人の器量がどれくらいかを図ろうとした。加持惣右衛門は和木重太郎をただの剣術使いにしたくなかったのだ。こうした経緯から、加持惣右衛門は青山新左衛門の護衛役なら適任者がいると答えた。
「和木重太郎という者がおります」
「和木重太郎」
「和木重郎左衛門の息子です」
岩淵郭之進は和木重郎左衛門のことは知っていた。藩主の義政は武芸好きで家督を継いでお国入りをしたときから、在藩中は剣術大会を催していた。初回の大会では、重郎左衛門は時間が合わなくて欠場したが、二度目のときは、勝ち抜き戦で見事優勝したので覚えていたのだ。その息子の和木重太郎は、剣の修行に江戸にでて六年になると言う。
岩淵郭之進は、重太郎が国元であまり顔を知られていないというのを優先した。剣はできるが世間知らずの若者であると聞いて、お側衆の青山新左衛門の博識に基づいた優れた洞察力、決断力に学ぶことも多かろうと、重太郎を護衛役に起用したのだ。