九
重太郎を教育するという含みを知った青山新左衛門は、道中、時間の許す限り、藩の政やその仕組み、藩内に起きた重大な出来事や物事の趨勢など、自分が知っていることを重太郎に講義した。
ただ、青山新左衛門は江戸詰みの身で、国元の人間関係は詳しくはわからぬという状態ではあったから、そこは諸星玄臣が補った。
道中の途中まで諸星玄臣が一緒だったが、あと二日で国入りというところで、連絡するところがあるからと諸星だけが先を急いだ。
青山新左衛門は城下に着くと、岩淵郭之進の屋敷に集まるにはまだ二日ほど時間があると、抜け荷の噂とか急に金回りの良くなった者がいないかなどを聞くために、御機嫌町の飲み屋街や新河原町の遊所に向かった。
噂はあくまで噂であって、人の口を経れば経るほど真実味が薄くなることが普通だが、噂の出所をたどることができれば、あるいは噂を総合すると真実が見えてくることがある。
噂のなかで、もう一年も経ち、藩が緘口令を敷いているにもかかわらず、坊の入り江で異国船が難破したというのがあった。さらに坊の入り江は、人が立ち入らない危険な海なのに、そこで抜け荷の荷を運んでいるらしいとか、それに勢戸屋という廻船問屋が絡んでいるらしいとかいうのもあった。
このとき、重太郎は護衛役ということで青山新左衛門についてまわっていたが、青山は一方で何も知らない重太郎を面白がって、何事も経験だと遊所屋に上がり相方を選んだりもした。
当の重太郎は青山のお節介に辟易して二日目には役目を放り出して、久しぶりに実家に顔を出した。それで母親が床にふせっていることを知ることになるのである。
重太郎の実家の隣の朝沢家には、重太郎とは六つ歳が離れた女の子がいた。名は美弥という。小さい頃、重太郎に祭りとか盆踊りとかに連れて行ってもらったりしたので、重太郎には良く懐いていた。美弥がまだ八歳だったときに、重太郎が修行で江戸に行くと聞くと、怒って見送りに表まで出てこなかった。
美弥は祖父の数之兵衛の薫陶を受け、利発でおしゃまな子だったが、素直で何事も億劫がるということはなかった。母親の花与のお使いで、よく和木家の台所に顔を出し、重太郎の母親である満の台所仕事を手伝っていた。満もそんな美弥を可愛がったのである。
美弥は美弥で、夕暮れ近くになると、重太郎が道場からへとへとだという顔で帰ってきて、台所に顔を出し、満に何か食べるものはとねだっているのを見たくて来たりしていたのだ。
「はいはい。もうすぐ夕飯ですからね。これで我慢しなさい」と、満は用意してあった小さな塩むすび二つと沢庵二切れを渡すのである。そのねだる様子がおかしくて、美弥はいつも笑いをこらえるのに必死だった。