修業
和木重太郎は十四歳の歳で江戸に出た。父親の重郎左衛門が加持惣右衛門に頼んで紹介状を書いてもらい、重太郎は江戸本所松倉町にある念流美濃島道場の内弟子となった。
その道場は、加持惣右衛門がまだ新宮寺司と呼ばれていた頃に客分扱いで通った剣道場で、道場主は美濃島勇斎、師範代は勇斎の娘お耀の婿となった近江橘である。近江橘は重太郎に普通の木刀の三倍の重さの木刀を渡し、「一日千回振れ」と命じ、一年間は道場では見取り稽古に徹しさせた。
重太郎は十日もすると内弟子生活になれ、夜明け前に起きて、井戸端で木刀の素振りをし、見取り稽古で見た型の練習をした。早朝欠かさず一人稽古をする橘は、こうした重太郎の熱心さを知ると、道場に呼んで稽古をつけるようになったのである。
重太郎は体の成長とともに腕も格段に上がり、三年目には道場の若手のなかで一、二を争うまでになった。惣右衛門は江戸に出てきたときは、必ず美濃島道場を訪ね、橘に重太郎の様子を尋ねた。橘は、重太郎を素質はあるし、何よりも稽古熱心だと評価した。
「だが……」と、懸念を口にした。
「最初にあった鬱屈みたいなものは消えたが、何かわからんが、迷いがあるようなのだ」
見込みがあると聞いた惣右衛門は、「座禅をくませてみたらどうか」と、提案した。
剣は心技体が充実し、それが一体となっていなければいけない。
「わかった。そうしよう」
橘は重太郎を本所松倉町にある曹洞宗の妙谷寺に、住職の覚醒から返事をもらえと使いに出した。妙谷寺は惣右衛門が江戸に出てきたとき、国元の曹洞宗法円寺の学然和尚の紹介で、大変世話になった禅寺である。