セイロン紅茶の誕生

日本人である私たちが最も好んで飲んでいる紅茶は、セイロン紅茶だ。今回は、そんな親しみ深い紅茶が誕生するタイミングである19世紀のセイロン島まで行ってみることにしよう。

セイロン島での紅茶産業大繁栄の前段には約50年間にわたる大々的なコーヒーの栽培と産業化の歴史があった。セイロンでのコーヒー生産が頂点を打つ1877年には、なんと輸出量約5万トン、金額にして1650万英国ポンド(8千万ドル)という大きな貿易金額を記録している。

一大産業となったコーヒー栽培であるが、コーヒーの木々を壊滅に至らせる「さび病」の発生という悲劇が待ち受けていた。

今でこそ紅茶の優良産地であるキャンディ、ディンブラ、ディコヤ、マスケリアといった中西部山地で、コーヒーの葉裏に現れたオレンジ色のスポット(さび病)はカビの胞子を放出し、霧と気流に乗って、この一帯のコーヒープランテーションの木々にあっという間に伝染してしまったのだろう。

その結果十年足らずの間に、一切の木々を枯死させ、コーヒー豆の生産は回復不可能になってしまった。

栄華を誇ったコーヒープランタキャンディーやそこで働く労働者が落胆にくれるころ、一方では18世紀半ばからのインド・アッサムでの茶樹栽培成功も引き金になり、茶栽培の試行が静かに行われていた。

“セイロン茶産業の父”と呼ばれ、後に功績をたたえられるスコットランド人ジェームステイラー(1835‐1892)は、17歳でセイロンに渡り、キャンディに程近いルールコンデラ・コーヒー園の片隅で、アッサム種茶樹の試験栽培を進めていたのだった。