九永禄元年(西暦一五五八年)

弘治三年九月、後奈良天皇が崩御され、正親町天皇が御即位された。主上の践祚に伴う改元について、朝廷は朽木谷の将軍足利義輝公ではなく、長慶様に相談された。征夷大将軍に諮問せずに、管領でもない者に問われることなど、前代未聞のことであり、このことは長慶様こそが〈天下人〉であることを世に知らしめた。

そして弘治四年二月廿八日、〈永禄〉と改元した。朝廷に無視される形となった将軍義輝公は大いに怒り、朽木谷から発給する文書については、しばらくはこれまで通り〈弘治〉を使い続けていたし、改元のお祝いにと朝廷に進上した品々は、無名の太刀や五百疋など、当てつけともとれる物ばかりであった。

「無名の太刀などを献上しおって。御上を蔑ろにする所業じゃ」

「千疋に満たぬなど、前代未聞よぉ」

などと、宮中では口々に囁かれ、公卿らは色めきだった。

風の薫る頃になると、将軍義輝公は、朽木谷に潜んでいる細川晴元、近江の守護六角義賢(号して承禎)と語り、三千の兵を率いて近江坂本の本誓寺まで進み、上洛の動きを見せた。

これに対して三好勢は、三好長逸、石成友通と儂、幕府政所執事の伊勢貞孝、公家の高倉永相卿が摂津衆・丹波衆を率いて、吉祥寺・四条道場・七条千乗寺・中堂寺・梅小路にそれぞれ陣取り、京の警護に支障がない旨を、公家の勧修寺晴秀卿を通じて、儂は正親町天皇に奏上した。

「都の警護は、我が主、三好筑前守が責任をもってあたりますので、主上に於かれましては、お心安んじてお過ごしくださいますよう」

「松永弾正忠よ、御上は甚く御心を痛めておじゃります。必ず内裏をお護りするよう、筑前守に申し伝えよ。頼みましたぞ」

勧修寺卿は不安げな面持ちで言葉を下した。