ただし、奥羽各県の県史などを読んでいると、例えば同盟から脱退した藩に同盟軍が攻め入って引き揚げる場合などにも同じような暴掠行為があったり、あるいは略奪をしていたのが徴用された地元の人間であったりしたこともあったようである。
そもそも新政府軍はどのような軍律の下で、戦っていたのだろうか。『復古記』の2月12日の項には、この日東征大総督より諸道の総督に「軍令」が発せられたとある。その中に堅く守るべき「陸軍諸法度條々」というのがあり、その項目の一つに次のようにある。
「一 猥ニ神社仏閣ヲ毀チ、民家ヲ放火シ、家財ヲ掠ル等、乱妨狼藉ハ勿論押買等、堅禁制之事」
新政府軍は各藩の藩軍の寄せ集めであるから、他に藩ごとの独自の軍律もあったであろう。天下泰平が続いてきたから、それはあるいは戦国時代からの古色蒼然としたものであったかもしれない。
明治政府の編纂した『古事類苑』の「兵事部 軍令」にはいくつか軍令が収録されているが、禁止事項としては、喧嘩口論、放火、押買、乱暴狼藉はよく出てくるが、婦女の姦犯は少なくとも表立った言葉としては出てこない。
笹間良彦の『武家戦陣資料事典』には、次の例が紹介されている。
1587年に豊臣秀吉が九州征伐の折に発した軍掟7カ条中の3条目に「一、喧嘩口論は双方共に其罪遁間敷事」、4条目に「一、追立夫、押売、諸事狼藉等有間敷事」とある。
「追おっ立たて夫ぶ 」とは農民などを強制的に人夫にかりだすこと、またそのかりだされた者のことを言うようである。
また、1600年の関ヶ原合戦時の徳川家康の軍法13カ条も紹介されており、その中にも禁止事項として、「喧嘩口論、味方の地での放火や乱妨狼藉・作毛の取散・田畠の中での陣取、敵地での男女の乱取、押売狼藉」が見られる。男女の乱取とは何だろうか?