軍律
軍律はあっても、それが実際に守られたか否かということもあるが、次の『鶴岡市史』にある一庄内藩士の覚書は、軍律が行き渡っていた例であり、後に庄内藩を西郷隆盛贔屓にした事情を物語るもののように思える。
「此日引上げの御沙汰にて西山より下るの途中、御国境に出て官軍を迎へ先達して越沢迄同道すへしと有りし故、直に御境目迄駈付たるに手旗を持たる隊長真先に立て入來る故、会釈して御出迎申せし也と述たるに、隊長は勿論其隊残らず慇懃に会釈し跡に成て入来る。越沢村役人の家の前に同道す。
畳の上に床几を出し置たるを見て、庭前にて草鞋を脱んとする故其儘にて上られよと強て申すと雖も、固辞して土足にて入る事をもせざりし、折節御謝罪状を持ち万年勝右衛門来ると、丁寧に会釈して受取りぬ」
戊辰戦争が終わり、新しい日本となっても、強奪や強姦といった軍人による暴掠行為を明確に否定するような軍律は定められなかった。
戊辰戦後の軍律としては、1882年に明治天皇から下賜された「軍人勅諭」があるが、「一、軍人は忠節を盡すを本分とすへし」に始まるこの勅諭には、暴掠行為への言及はない。
強いて言えば、「武勇を尚ふものは常々人に接するには温和を第一とし諸人の愛敬を得むと心掛けよ由なき勇を好みて猛威を振ひたらは果は世人も忌嫌ひて豺狼なとの如く思ひなむ心すへきことにこそ……」とある程度である。
その後、日中戦争中、中国戦線を視察し、日本兵の中国での掠奪強姦など暴虐な行為の多いことを見聞きして帰国した陸軍省の幹部がこれを憂い、新たな軍紀集を作成することを提案した。この提案に基づいて編集され、1941年に示達されたのが、『戦陣訓』である。