「反逆者」の処分

しかし新政府はその一方で、藩主の身代わりとして、各藩の「反逆首謀者」なる者を処刑するとし、各藩にその名前を届け出るよう命じた。1869年に入ると、各藩からその届出がなされた。

新政府は、すでに戦死した者あるいは自刃した者でもよいとしたため、死者の名を届け出る藩も少なくなかったが、何人か生存者の中から処刑される者が出た。その届出と、新政府によるその処罰の状況は、次の通りである。

会津藩  家老  田中土佐   すでに自刃

     〃   神保内蔵助  〃

     〃   萱野権兵衛  1869年5月18日斬首

庄内藩  中老  石原倉右衛門 すでに戦死

仙台藩  奉行  坂英力    1869 年5月19日斬首

     〃   但木土佐   〃

米沢藩  家老格 色部久長   すでに自刃

南部藩  家老  楢山佐渡   1869年6月23日斬首

長岡藩  〃   河井継之助  すでに戦病死

     〃   山本帯刀   すでに斬首

山形藩  〃   水野元宣   1869年5月20日斬首

村上藩  〃   鳥居三十郎  1869年6月25日斬首

村松藩  〃   堀右衛門三郎 1869年5月24日斬首

     軍事役 斉藤久七   〃

棚倉藩  家老  阿部内膳   すでに戦死

二本松藩 〃   丹羽一学   すでに自刃

     用人  丹羽新十郎  〃

すでに死亡している者については、「斬ニ擬シテ其後ヲ絶ツ」とされた。仙台藩については、この届出の後、藩政の指導権を巡って内紛があり、新政府に対し「まだ罪人がいる」との訴えがあった。このため、新政府も捨てておけず、改めて鎮撫使を派遣、その結果、誣告された奉行の和田織部、近習の玉虫左太夫などの7名が追加で殺されることになってしまった。