会津藩では、第一次長州征伐の時長州藩が家老3人の首を幕府に差し出したのに倣ってか、家老3人の首を差し出すことにした。内二人については、すでに8月23日に敗戦の責任をとって自刃していた家老二人を当てることにしたが、あと一人を選ぶ必要があり、席次が最も上位にあった萱野が選ばれることになった。

家老として萱野の上には西郷頼母がいたが、西郷は籠城戦中に松平容保により城から出されていた。彼が城を出された事情については明らかでないが、箱館戦争の時には箱館にいた。萱野は主戦派の最右翼であったというわけでもないようであるが、藩主の身代わりとして従容として死を受け容れたという。

長岡藩の山本は、長岡城の再度の落城後会津領内で新政府軍に捕らえられ、降伏を勧められたが、聞かず、斬首された。河井は長岡城奪還時に受けた傷がもとで、退却の途中会津で死亡した。

河井や楢山については、それぞれの地元で信奉者が多いが、河井については5月の段階で、楢山にいたっては全体の戦闘がほぼ終わろうとしている8月になって、新政府軍に抵抗することとした判断が、果たして正しかったのか。その判断によってその後失われた多くの人命や財産のことがわかっているだけに、疑問が残る。

私には、二人に共通して、上級武士として西郷たち下級武士を蔑視しその活動を不快に思う気持ちがあり、それが判断を下すに当たって影響したと思えるのだがどうだろうか。そしてそれぞれの藩の重臣たちの間で二人の発言「力」が強すぎたということも共通であった。その楢山から「俺は京都から帰ったばかりだ。京都の情勢は俺が詳しい。岩倉具視からもこうこう言われた」などと断じられれば、誰も反論できなかったであろう。その場の様子が目に見えるようである。

なお、「反逆首謀者」に対し、『復古記』では、その処分を「斬首」と記しているが、各藩側の記録は「切腹」としている。『復古記』の「斬首」が具体的に何を意味したかは判然としない。仮にそれが当時各藩で適用されていた上級武士に対するものとしての「切腹」ではない、より身分の低い者に適用される「斬首」と同じものであったのであれば、藩のために死んでくれる恩人である、藩として少なくとも「切腹」と同様の作法で死なせたいと、新政府側の暗黙であれ了解を求める努力はしたであろう。

もっとも、切腹も、自殺のためのものであれば、二本松藩の丹羽和左衛門のように実際に腹を切り裂いて腸を掴み出すまでにも至ろう。しかし処刑としての切腹では介錯人が控えていて、被処刑者が腹に短刀を擬するや間髪を入れず首を切り落としたというから、斬首との実際上の違いは、砂や畳を敷いた場所の設えと腹に擬する刀の有無位であろう。その刀も当時は木刀であったり、扇であることさえあったという。