私は余りにも激しく自分を自虐的に否定し続けた反動で、憐れむように自分を肯定するようになっていた。どんなに自分自身を意識で否定しても、自分の存在は無くなりはしない。どんなに自分自身を否定しても、否定している自分は否定できない。良かれ悪しかれ、自分自身、あるものはあるのだ。私は自ずから体制の理性に従う者から、自分の存在の不条理性に従う者に変わっていった。それは自分自身であろうと欲しない絶望から、自分自身であろうと欲する絶望へと転換していくことだった。無論、それは外の世界を否定して自閉化し、内面化していくことでもあった。私はそんなふうにして厭世主義の文学に耽溺し、虚無主義を胚胎していった。
そうして十六歳も終わる頃、落ち着いてきた私の存在の奥底に仄かに初恋の衝動が芽生えた。クラスの遠足の折り、はぐれた二人が見つめ合って、互いに俯いたというだけのなれ初めだった。彼女はしばらくして何もしない私を見限ってか、別のボーイフレンドのところに行ってしまった。しかし、私の慕情は消えることはなかった。私は密やかにますます彼女に恋い焦がれ、夜となく昼となく彼女のことを思い続けるようになっていった。私は自ずから絶望が恋愛をもたらすことを知るに至ったが、絶望がそれを悲恋に終わらせることを知る由もなかった。