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第六節 死に急ぐ友

そうして、私は苦しみ迷いながらも、そんなふうに祈ることで、不思議に生き延びていった。そして、Tのことを思い出し、信仰を拒絶した彼のあり(よう)を思わずにはいられなかった。

彼の孤独な唯物論は、存在に従って生きることを要求し、それがために彼は飲酒欲求に従って飲むことになり、渇望症状の(うち)に死んでいったのだろう。

勿論、彼は自分の意志で酒を()めようとしただろう。Tは絶対に意志の力を信じて疑わない男だった。しかし、この病気になったなら、いくら意志の力で酒を止めようとしても、止めることはできないという。止めようとすればするほど飲んでしまうという。なぜなら、アルコール中毒とはそういう狂気の病であるからだという。

だから、その飲酒欲求を神に(ゆだ)ねるしかないというが、彼は神を認めることができなかったのだ。

それからまた、どれほどの日々を過ぎ越したろうか。ある朝、私はこの閉ざされた世界の彼方(かなた)に、幻のように淡い光を見て、救われるであろうことを予感した。

私は、確かに、飲酒欲求に対してまったく無力(絶望)であった。そして、無意識に無力(絶望)であることを否認して、それから逃れようとしてきた。しかし、無力(絶望)であっていいのだ。なぜなら、無力(絶望)であろうとするところに(無力を認めるところに)、救いがあるからである。

なぜかというに、無力(絶望)であることは、その中に死への関わりを含んでおり、死を受け入れてなおも生きようとすることが、永遠的なものへと回し向けられていくこととして、現われるからである。

だから、無力(絶望)を認めること(死を受け入れてなおも生きようとすること)によって、永遠的なものを信ずるのであり、無力(絶望)を認みとめることによって、永遠的なものへと行動して委ねるのである。そして、その中で欲求を浄化され、飲まないで生きることにもなるわけである。