相楽総三と小栗上野介
正当な理由も不明のままこの時期に新政府軍に殺害された相楽総三と小栗上野介とについて、ここで記しておくこととしたい。
相楽総三
江戸を目指す東山道先鋒総督岩倉具定は、3月1日下諏訪に至り、翌々3日同地を発って和田に向かった。その3月3日夜、冷たい雨の降る下諏訪で、相楽総三ら8名の者が斬首され、梟首された。
相楽は下総国相馬郡の郷士の子だが、京都で薩摩藩の屋敷に出入りするようになり、飽くまでも武力による倒幕を狙う西郷隆盛の命を受けて、前年の10月頃から江戸の薩摩藩三田藩邸に浪士を集め、江戸とその周辺で彼らに乱暴狼藉を働かせ、旧幕側を挑発した。小田原藩の支藩荻野山中藩の陣屋を襲ったのも、江戸城の西の丸に火を付けたのも彼らの仕業とされる。
あまりのことに辛抱しきれなくなった旧幕府は、庄内藩などに命じ12月25日薩摩藩邸を焼討ちさせた。このことが大坂に伝わると、大坂城の旧幕軍の薩摩藩に対する敵愾心がいやがうえにも高まり、慶喜もこれを抑えきれず、慶喜の討薩上表のための上洛、鳥羽伏見の戦いという流れとなった。相楽はこの流れの端緒を創った男と言える。
江戸から薩摩藩邸焼討ちの一報が届いた時、西郷は、「我がこと成れり、戦端は開かれたり」と快哉を叫んだという。相楽は藩邸が襲撃されると薩摩藩の軍艦で兵庫に逃れ、京に上って西郷に会い、大いに賞賛された。
この後相楽は、公卿の綾小路俊美と滋野井公寿を中心に1月10日に近江国松尾山金剛輪寺で結成された赤報隊に加わった。これも西郷の指示によるとされる。赤報隊は官軍の先鋒隊とされ、相楽が隊長を務め薩摩藩邸焼討ち事件の浪士からなる一番隊、元御陵衛士からなる二番隊、水口藩の有志からなる三番隊で編成され出陣した。
しかしすぐに政府から帰還命令があり、二番隊、三番隊はそれに服して解散した。相楽の隊だけは、これに服さず、総督軍に先行して東山道を進軍し続けた。そして行く先々で「年貢半減」を掲げて民衆を新政府に引き付けていった。年貢半減について相楽は、事前に当局者の許可を得ていた。
しかし、その後どのような経緯があったのか。間もなく彼らは「偽官軍」として捕らえられ、処刑される身となった。
処刑に当たっての罪文では「勅命と偽り、強盗無頼の者を集め、官軍先鋒嚮導隊と称し、総督府を欺き、勝手に進退し、その上諸藩と応接し、あるいは良民を劫掠し、莫大な金を貪り、種々悪業を働き、その罪数うるに遑あらず……。」とされているが、これを額面通り受け取ることはできない。「年貢半減」の前言を取り消したい新政府がこのような挙に出たとの見方が一般的である。
相楽処刑の報せを受けた夫人の照子は、4歳の一子河次郎を姉の木村はま子に預けると夫の後を追って自害した。相楽たちの名誉は、河次郎の子の木村亀太郎と河次郎の夫人栄子、それにはま子たちの血のにじむ努力により、1928年になって、相楽たちへの贈位という形で回復された。相楽には正五位が贈られた。
それにしても相楽たちの処刑について誰がどう決めたのか、西郷はその時どう関係したのか、依然不明である。相楽たちの江戸での乱暴狼藉、それへの西郷や薩摩藩のかかわりを抹消するための口封じであったのではないか……。疑問は消えない。
相楽総三と亀太郎たちによるその名誉回復の努力に関しては、長谷川伸の『相楽総三とその同志』に詳しい。その序文で長谷川は、「この一冊を、『紙の記念碑』といい、『筆の香華』と私はいっている」と書いている。