サン・ジェルマン・デ・プレ秋灯

彼は「午後十一時半に店においで。晩御飯もお店でいい」と言っていたけれど、晩御飯を食べて一度ホテルに戻るにはちょっと鬱陶しい。安全性を考えると慣れない夜道を往復はしたくない。そこで私は午後十時頃、店に着くよう予定を立てる。

パリはサマータイムこそ終わったものの、夜は午後九時まで明るい。明るいうちにサン・ジェルマン・デ・プレまでたどり着き、お店の近くでぶらぶらして暗くなり始めたらお店でご飯がてら待っている計画を立てる。ムッシュは私がどこから来るか知らないし、そこまで考えてはいないだろう。

さて、今は午後九時、ぼちぼち日没だ。出かけよう。私は冬用のパンプスに青いニットのハイネックのワンピースに、とっておきのマックデイビッドの黒いコートを羽織る。ハートのイヤリングもつける。バッグはイギリス製だけど、色がこっくりとした臙脂色だから、パリの秋にはふさわしい。私はさりげない不安を抱えながらルーム・キーをホテルのフロントに預け、「出かけてくる」と告げて夕方の大通りへ歩み出した。

気のせいか車も、行き交うパリの人々も家路を急いでいる風に見えた。教会はもう閉まっている。そのサン・ジェルマン・デ・プレ教会の前を通って、ビュシ通りに入れば、そこはもうパリっ子たちの世界。若者が思い思いに土曜の夜を楽しんで、活気がある。男どうしで酒を飲みながらおしゃべりを、カップルは笑顔で頬を寄せ合い何かを語らう。路地の角ではミュージシャンがギターやベースを掻き鳴らしながら歌を披露し、周りには集う若者たち。

ちょっと危ないながらもカメラに収める。人込みで他のことに集中しているとスリに遭うかもしれない。気をつけて移動しながらカメラのシャッターを押し、パリの夜を私も堪能する。

ここサン・ジェルマン・デ・プレはかつての文化人や芸術家が文学カフェに集っては議論を重ねたところ。実存主義という思想が生まれ育った地下クラブ「タブー」を始め、いくつかの〈穴倉酒場〉がこの先のドフィーヌ街にあったらしい。昼間のカフェ「フロール」から夜の「タブー」へと場所を移す実存主義者たち。覗いたカメラのフィルターの向こうに、ぼんやりとサルトルの眼鏡が歪んで見える。