結局、彼の店に戻ったのは午後二時くらいだった。ホテルまでの道に迷ってしまったのが原因だ。比較的大きな通りを歩いていた私は、道を間違えていると気づくまでにだいぶ時間をロスしてしまった。自分ひとりでは手に負えないと判断すると、私はホテルまでの道順を尋ねて幾度かパリ市民のお世話になった。
外国に来るとおおらかになる性分の私は、「すみません」だけは英語はもちろんのこと、フランス語もイタリア語も物おじせずに言える。路上に座り込んでいた青年は適当に返答をして通りを指さすと、そのまま手のひらを出して私にチップをせびった。もう一人の中年のマダムは、ありがたいことに私のガイドブックを見ながらわざわざホテルへ電話して場所を聞いてくれた。
ホテルは目立たない路地の中ほどにあり、フロントが狭くて、いかにもビジネスホテルといった感じだったが、そこはパリなのでやはり日本のそれとは趣が異なる。すぐにチェックインを済ませて、大きなベッドがほぼ全体を占めている部屋に荷物を置くと、私は彼のいるラ・イタリアンヌへと向かった。セーヌ川方面への道はなんとか覚えていて、私は方角を確かめながらも無事、店に着いた。
レストランはちょっと混んでいた。ラストオーダーは過ぎたかどうかという時間だろう。ごめんなさい。もっと早く来るつもりだったのよ。前回写真を撮ってくれた若いスタッフが私をいつもの席に促す。地階へ続く階段のわきのこぢんまりとした二人席だ。彼もまた私がパリを再訪したことを笑顔で喜んでくれた。「戻ってきたのよ」と告げるとにっこり笑って私に手を差し出した。笑顔の握手は本当に気分のいいものだ。どうやらその若いスタッフは私より英語が苦手なようだった。
間もなくムッシュが私にオーダーを取りに来た。何が食べたいかと聞くので、前回食べた、あのパスタと言ったつもりだが、快い返事がない。忘れちゃったのかな。ちょっとがっかりする私に彼は、「好きなものを選んで」と言う。私はわからないから「あなたが選んで」と言ったら、ちょっと不機嫌そうな表情をした。そうだ、ここはヨーロッパであるから「おまかせ」とか「あなたの好みで」なんていうのは通用しないのかもしれない。以前旅したイタリアのハンドバッグ屋の店主に「自分のための品をなぜ買わないの?」と言われ自分用に買ったら、ものすごく喜んでいたことを思い出す。自分の意思を表示することの大切さとそのタイミングを切り替えなくちゃ。