「これこそ私の知りたかったこと」

母はこの「未知日記」の、天上界から降ろされた教えに出会うことで一生かけて求め続けてきた自分の信仰心の納まりどころを得たようだった。「これこそが自分が知りたかったことだ」とよく言っていた。だが母にはその一生懸命な道を求める気持ちへの最後のご褒美が待っていたのだ。

「こだま会」の師はある時突然こうおっしゃったのだ。「この未知日記と同じ、天上界から降ろされた教えをもっと広く説いておられる若い方がいま世に出ていらっしゃるわね」そう言って微笑まれた。母と私は「知っている?」と顔を見合わせ、互いに「ううん」と首を振った。

すると師は続けて「私がいなくなったらあなた方はその方のもとに行くのがいいわね」とおっしゃったのだ。それが誰のことなのか、私たちには皆目見当がつかなかった。

ご高齢で外出されることなく、TVもほとんどご覧にならないような生活の師が、私たちもまだ知らないでいるそういう方のことをどうしてご存じなのだろうか、と不思議だったが、二人とも師はそれを空(くう)から知らされたのだろうと感じていた。

不思議なことに師が亡くなって間もなくして「図書館で見つけた本がとても面白いから読まない?」と妹からある書物が届けられた。その三部作の書物を読んだとき、母はこだま会の師が仰っていたのはこのことだとすぐにわかったと言った。その本が説いていたのは「未知日記」の内容と根幹は全く同じなのだが、もっと宇宙全体を視野に入れたような広大な世界観だった。

「未知日記」は読んだとはいってもそれについて説明ができるような理解ができたとは思えなかった。難しかったのだ。地球以外の宇宙のさまざまな世界の記述のあるところもあったし、現実にこの日本国に生きていたことのある人物の名が出てきて、その人物が地上ではどういう生活を送っていたため、現在天上界でどうしているというような話があったりした。

また宇宙には「鏡の国」のようなところがあるという箇所があったのだが(それがどの巻にあったかはもう忘れている)、そこを読んだとき『鏡の国のアリス』を思い出して、アリスの著者、ルイス・キャロルは間違いなく宇宙のこの鏡の国を知っていたのだろうと思ったりした。

『未知日記』のなかで私が一番学んだと思えるのは、人間の心の持ち方の正邪を細かく教えてくれるところだった。自分ではこれで正しいと思っていたことが、実は神の眼からは間違っているのだということを知ることが多かった。また人の眼からは悪と思えることでも神は許すことがあることも知り、眼から何枚もうろこが落ちた。

「未知日記」にはそういう細かな、しかもとても厳しい神の法が説かれていた。読むのも理解するのも難しかったのだ。それに対してその三部作はわかりやすい言葉で書かれていて、なんというのか“間口が広い”感じがした。大きく網を広げているような感じ、と言ったらいいだろうか。未知日記の師が言った「もっと広く説いている」という言葉の意味がよくわかった。

最後のご褒美

行動派の母は直ぐにその師が主催される会の会員となってまた新たに学び始めたのだ。師はご自分の死後の道を私たち親子にお示しくださっていたのだ。

そうして母は自分の求めてきた道が間違いなく自分をここまで導いてくれたことに感謝し、「もう、これでいい」と確信していたようだった。

母も自分の死のときが近いと思うようになったとき、天上界の方々に「どうぞ、私が迷わず無事にそちらの世界へたどり着けますようにお導きください」という思いをこめてこの祈りをあげていたにちがいない。

若い時代にせっかく母に「死のことを習え」と教えられながら精神的にははかばかしい進捗もない娘だが、それでも自分の死に際しては、母と同じように「潔く死を迎える」準備をしていこうとだけは心に定めている。

私が最期のときに選ぶ祈りもおそらく母と同じようにこの次の世も、またその次の世も、いつも神様に出会える自分でありたいという願いを込めた祈りになるだろうと思う。