怖れず、死に向かいあいたい
母も、人生の最期が近いと感じ始めたとき、やはり死がどのようにやってくるのか、霊界へどうやったら無事にたどり着けるのだろうか、というような不安を持ったに違いない。
霊界をたまたま覗くという神秘体験をした人たちが残した”霊界案内”の書物も読み、ある程度の”霊界知識”はあったし、また、信仰のない人とは違って生命が永遠であることを確信していても、自分自身の「死」をどうやって迎えたらよいかという不安はあったにちがいない。
死に臨んで、そういう不安や迷いで心を騒がせないために、そのときが来たら「この人生を後悔しておりません。潔く死を受け入れます」という覚悟を定めるために、母は毎晩祈っていたにちがいない。死へ向かう心の準備と覚悟を着々と進めていたのだろうと、至らぬ娘は今頃になって気づくのだ。母はそのお祈りの言葉のあとに、もう一つの言葉を書いていた。
「我は生を受く、今まさに死期迫れり。されど未だ神の道を悟らずして世を去らば、何日かは神に奉仕ることを得んや。神のお力は広大なりと聞く。仰ぎ願わくば、あわれみをたれ給え」(母のメモが「奉仕る」となっているのでそのままにした。これは母が引用した元の本がそうなっていたのだと思う。神に”お仕えする”という意味だと思う)
晩年の母は自分の信じる道に確信を得ていたと思う。自ら求めて、求めて変転を繰り返しながら最後にたどり着いた信仰の世界に「これでいいのだ、これが求めていたものにちがいない」という強い信仰を持って神様に向きあっている、私はそう思っていた。そういう意味では母は自信満々の人だった。
確かにそうであったと思うが、母の信仰心は私が思うよりずっと謙虚で、そして強かったのだと、この祈りの言葉を読んで感じた。
「私は神様の道をいくらかはわかったと思っておりますが、私の悟りはまだまだ未熟な幼いものだろうと思います。どうぞ私の、神様を思う心に免じて私に(神様の)憐れみを垂れ給え」というような意味でよいのだろうか。
何故、憐れみをいただきたいかというと、それは「また未来の何日の日にか、神に奉仕るために」(未来のいつの日にか、という意味だと思う)というのだ。母はこの次の世に生まれてきたときも、また、その次もいつの世でも神様への正しい信仰を得て、神様に向かいあえる自分でありますように、と祈っていたのだと思う。