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敗戦から旧制高等学校へ
一九四〇年四月、埼玉県朝霞の陸軍予科士官学校に入校しました。
ここで中学四年または五年から入学した多くの生徒と生活を共にすることになります。数としては中学出の方が圧倒的に多いのですが、陸幼出身者はエリートとしての誇りがあり、制裁などがあったようです。
その頃は戦局が日に日にわが方に不利となり、予科士官学校も爆撃を受けました。日本の主要な都市は、焼夷弾により焦土に変わっていきました。
陸士での生活は、人数が多いだけに味気ないものでした。食事は、高粱による赤い主食で、栄養も不足していました。何よりも悩まされたのは、寝室における蚤の襲来でした。
私は蚤に弱く、喰われると赤く腫れるのです。浴槽に熱湯を沸かし、毛布をそのなかに入れての蚤退治がありましたが、何の効果もありませんでした。
私はその後、航空士官学校の適性試験を受け合格していましたが、早く特攻隊に志願して国に報いたいと思っていました。
昭和二十年八月十五日の暑い日、天皇陛下の玉音放送を校庭で聞かされました。ガーガー言って、よく聞き取れませんでしたが、何となく敗戦を知りました。
呆然自失ということで、帰室後しばらくは誰も口をききませんでした。どうしてよいか分からなかったのです。
それは上司の区隊長、中隊長も同じです。ことに当時の陸士の校長は、インパール作戦で多数の兵士を犠牲にした牟田口廉也でした。希望に燃えた幼年学校三年間の生活は、こうして消え去りました。
しかし私はほっとした気持ちもありました。これで蚤の襲来からの生活が終わるのだ、両親と兄弟姉妹とまた一緒に暮らせる喜びがありました。
私の家は戦災に遭うことなく、会社勤めの父の収入は安定していました。実際、私ほど恵まれたものはいなかったと思います。
終戦とともにたくさんの陸軍、海軍の生徒が世間に戻りました。旧制の高等学校への編入試験があり、内申書と簡単な語学、面接などで私はまたしても落第しました。しかし落第してよかったと思いました。
名幼や陸士では自習時間は決められていましたが、戦後は、自分の好きなように勉強できます。何より英語力が不足していました。
私は予備校に行ったり、個人指導なども受け、猛烈に勉強しました。その甲斐あって東京高等学校と成蹊高等学校に合格しました。
東京高等学校は公立ですが、その合格番号は原爆のドームのような焼け落ちた建物の壁に貼ってありました。とてもこんなところでは落ち着いて勉強できないと思い、私立の旧制成蹊高校理科乙類に入学しました。
緑濃いけやき並木の正面にチョコレート色の校舎を見たとき、ここで落ち着いて学問に励むという幸せを感じました。昭和二十一年四月のことです。
旧制高校では、理科は甲(理工系)と乙(医生物系)に大別されていました。私は理工系が好きでしたが、名幼で三年間ドイツ語を習ったこと、手先が不器用で図学が嫌いだったことで理乙に決めました。