第1章 なぜ本を読むのか? 本の意味
"読書ジレンマ"に陥っていると自覚している
"読書ジレンマ"なんて言葉があるかどうか知りませんが、確実に私はそこに陥っています。
本のメリットはわかる、必要性も痛感している、実際に読書を習慣化させてもきた。そうなってくると次のステップは、多くの読書法の本で強調されているように、アウトプットというか、本読みをどう人生に活かしていくかという課題とぶつかります。
読めば読むほど、理解すればするほど、知識を使わなければ意味がないというプレッシャーに苛(さいな)まれます。結果、良書であればあるほど、名著や古典であればあるほど、実際の行動につなげられなかったときには、読むこと自体が怖くなってきます。
優良企業が技術革新をしたにもかかわらず、それが仇となって市場からいなくなる『イノベーションのジレンマ』(クレイトン・クリステンセン・著)と同じような構造かもしれません。
自ら構築したいいことだとしても、競合が現れたり、新たな革新に付いていけなくなったりして、最終的に押し潰されてしまうことです。
読書家が偉くなれるなら、先に示した読書を生業にしているような人は皆、実績を上げていると思うのですが、どうなのでしょうか……(経済学者が、全員お金持ちになれないのと同じでしょうか)。
読書は人生を変えないという前提
前項で少し述べましたが、私は、読書によって人生を変えられたのではたまったものではないと思っています。
他人の意見に耳を傾けることはあっても、盲信するようなことはしません。はっきり言っておきますが、「この一冊が自分の人生を変えた」的なことを、無自覚に発信している人を信用していません。
もし、本当に人生を変える出来事が起こったのでしたら、それは読書の影響以上の、そもそもの本人の気付きや努力によってなるべくしてなったということです。
ひねくれたことを言うようですが、それはその人の資質であって、読むだけで人生を変えるような大きな力が本一冊にあるとは到底思えません。
それはたとえば、「失敗は他人や環境のせいに転嫁してはならない」という教えを説いた本を読み、「なるほど、失敗は自分で背負う覚悟が必要なのか」と思って実践しようとしたとしても、それをするためのステージに立つには、段階を踏まなければならないということです。
その段階を踏まないのに、高度な教えを取り込もうとするのは、因数分解ができないのに微分積分を解くようなものです。
そもそも、その失敗はどういうところに起因していたのか? ヒューマンエラーを問わないというならシステムエラーなのか? 再発防止に活かすための環境的ノウハウは構築できたのか?
そういうことが分析できないのに「責任はすべて自分が負う」などと格好いいことを言っても、発展性はないどころか逆に、思考が停止してしまわないかということです。