備中松山藩

譜代5万石の備中松山藩藩主板倉勝静は、鳥羽伏見の戦い当時旧幕府の老中職にあり、慶喜とともに大坂城を出て船で江戸へ逃れた。

1月11日、岡山藩などに備中松山藩追討の命令が出た。藩主不在の国許では、抗戦を主張する者もいたが、恭順に決し、1月18日には進駐してきた岡山藩兵に城を明け渡した。

しかし犠牲者は出た。鳥羽伏見戦時藩主に従って大坂で警備に当たっていた藩兵150余名は、勝静の命令で、年寄役の熊田恰に率いられて帰藩することになり、船で備中玉島に着いたが、そこで岡山藩兵に包囲された。熊田は、国許での謹慎を願ったが、岡山軍はそれを許さず、強硬に熊田の首を要求した。松山の藩庁も恭順を貫くには熊田の死も止むを得ないとした。

これを知った熊田は、藩を守るためにはと自らの死を決し、他の150余名の藩兵の助命を嘆願して、1月22日自刃した。岡山藩主は、熊田を重臣の亀鑑として香華料を送ったと言われるが、その頃岡山藩は、1月11日に神戸村で発生した岡山藩兵と英仏などの兵士との衝突事件(神戸事件)を抱えており、2月9日には藩士の一人に切腹を命じることになる。

ところで勝静のほうであるが、勝静は江戸に帰ると家督を子の勝全に譲り、父子共に日光で謹慎していたが、4月9日には進撃してきた新政府軍に降り、宇都宮城に監禁された。しかし同月19日に旧幕脱走軍が一時宇都宮城を奪うと、脱出して会津に走り、その後は奥羽越列藩同盟の指導者の一人となり、敗れると箱館へと、最後まで新政府軍に抵抗した。

1869年5月には箱館から東京に戻ったが、死一等を減じられて永預となり、家は従弟の勝弼が継ぐことを許され、旧封の中から2万石を与えられた。