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巡礼 熊田恰
熊田恰の墓を訪ねたのは、9月の半ばであった。
山陽新幹線から伯備線に入って備中高梁の一つ手前、備中広瀬駅で降りて歩き出した。この日は折悪しくひどい雨で、片側一車線の狭い国道を疾走する車また車にだいぶ泥水を浴びせられ、何たることかと小さな傘に隠れ背を丸めて歩いていたが、これはこれは!
ほどなく「山中鹿之助墓所左折」の標識が目に入った。山中鹿之助が毛利に捕らわれ、どこかの川の岸で斬殺されたということは、おぼろげに記憶していたが、それはどこか海に近い場所のように勝手に思い込んでいて、このような山深い場所とは考えていなかった。
山中鹿之助は、尼子氏の名将とうたわれた。その割に彼が戦に勝った話をあまり聞かないのは、「人は城、人は石垣」と歌われる武田氏が簡単に雲散してしまったのと共に、不思議なことである。大国に歯向かう小国の家臣では、いかんともなし得なかったということであろうか。
最後は1578年に播磨の上月城で毛利勢に敗れ、備中松山に連行される途中、高梁川の阿井の渡しで斬殺された。川を渡れば松山城はもう目と鼻の先という場所であった。高梁川は先程来、国道の左手を泥色の濁流となって流れている。市街地の入口で国道を左に折れてすぐに橋を渡る。橋の上から見る高梁川は川幅が広く、大雨の中、川の流量も流速もかなりのものである。
鹿之助の墓は橋から近い。小園地といった感じの地所の奥に立派な胸高の石積みの段が築かれ、その上に、これも立派な墓石が立っている。やや小降りとなった雨の中で鹿之助のことを思いながらしばらく佇む。