【安達太良山(福島)】 今日から山を始めた夫婦 1990年9月

暑さ寒さも彼岸までというが、確かに秋の気配を感じ始める9月の下旬。午後4時という半端な時間に川越を出発。久喜ICから東北自動車道に乗った。

6時に郡山を過ぎ、安達太良SAに寄って、車中泊。駐車場は夜中までうるさかった。耳栓が活躍。午前4時に起きてトイレと洗顔を済ませて出発。二本松ICの料金所でカードを出すと、おじさんが不思議そうな顔をした。

「どこかで休んでいましたか?」

久喜からこんなに早く二本松までというのが、腑に落ちなかったらしい。

「ええ、安達太良SAで車中泊しました」

おじさんは(うなず)いた。日が明け始めた田んぼ道を走り、岳温泉へと進む。ロープウエーのある駐車場に到着したのは午前5時。早朝なのに車が10台、白線の引かれた広場にはテントも四張あった。(車中泊でなくテント泊の手もあったか。山好きが集まっているな)と思った。

左にゴンドラの駅が見えるが、まだ早すぎて動いていない。私は勢至(せいし)(だいら)を目指して自然歩道を歩き出した。ススキはまだ穂先を垂らしていないが、ハゼの実は赤くなり、リンドウのつぼみも膨らんでいる。

勢至平に到着。前方に安達太良連峰が黒く長く見えてきた。一番右に高いのが1720メートルの箕輪山。左に険しい岩壁を見せる鉄山。さらに左に()筈ヶ森(はずがもり)へと続く。その奥に見えるピークが今日の目標安達太良山だ。

高村光太郎の純愛の詩集『智恵子抄』を思い出す。

「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。二本松生まれの智恵子は、病床でもふるさとの山や川、空を思い出していたのだろう。智恵子は東京に空がないといふ、本当の空が見たいといふ、智恵子は遠くを見ながらいふ。阿多多羅の山の上に、毎日出ている青い空が、智恵子の本当の空だといふ」

青空に二本の白線を引きながら、飛行機が飛んでいった。勢至平を出発すると川の音がしてきた。硫黄の臭いもする。やがて湯量豊富なくろがね小屋に着いた。小屋の前に中高年のグループが十人ほどいた。

「今日は暑くなるかな?」とリーダーらしい人が言う。

「田中さん! まだですか~」

「はーい」

「おいてっちゃうよ!」

昨夜ここに泊まった人たちの出発風景らしい。小さな川を渡り、息を切らして急登を一時間登ると馬の背の稜線に出た。西の展望が一気に開けた。眼下には水のない灰色のお釜が大きく口を開けている。

明治33年に七十人以上の犠牲者を出した大爆発が、この「沼ノ平」をつくったという。左右に切り立った岩壁は、草や木を寄せ付けない死の山のように見えた。1997年9月15日に沼ノ平火口付近で登山者4名が火山ガス硫化水素が原因で亡くなったという事故が発生した。

私は目の前に広がる「死の山風景」を思い返し、あり得る事故だと思った。遥か西には、磐梯山が三角形の頂を天に突き上げている。私は(あの山も登らなければ)と心に誓った。