くさはひ(種)

若き日の光源氏は、夕顔を「なにがしの院」で死なせてしまった。夕顔の乳姉妹である右近によれば、夕顔は頭中将と関係のあった女性で、二人の間には女児(撫子、後の玉鬘)がいるとのことであった。

光源氏は、夕顔を死なせたという醜聞が世間に漏れ出ることを心配して、右近を自分のところで仕えさせることにした。また、光源氏は、その女児を引き取りたいと思うが、夕顔の乳母(右近の母親とは別人)と連絡すると事情を明かさなければならなくなるから、それもできない。そのまま、何年かが過ぎていった。

それでも、光源氏は、その後も右近に女児(以下「玉鬘」と呼ぶ)の行方を探させていた。やがて、右近は長谷寺(はせでら)で、美しく成長した玉鬘に出逢うことができた。

玉鬘を六条院に引き取りたいと考えた光源氏は、右近に、

「父親である内大臣(かつての頭中将)に知らせるには及ばない。あちらは、たくさん子どもたちがいて、今になってその中に入っていくのは肩身の狭い思いをするだけだ。こちらは、子どもが少なくてものさびしいくらいだから、思いがけないところでわが子を尋ね出したとでも言っておくことにしよう。女性に目のない男たちをやきもきさせる『くさはひ』として、心を込めてお世話しよう」

と言う。

また、紫の上には、玉鬘が自分の子ではなく、内大臣の子であることを明かしたうえで、次のように言う。

光源氏「こういう娘がいると世間に知らせて、兵部卿宮などこの邸に出入りする男たちの心を乱れさせてやりたいものです。女好きの男たちが真面目そうな顔つきでやってくるのは、心を乱す『くさはひ』がいないからです。玉鬘を大切にお世話して、あの連中がやきもきする様子をとっくりと見てやろうと思います」

紫の上「怪しげな親御さんですこと。何よりもまず人の心をあおり、そそのかすことをお考えになるなんて、けしからぬことです」

右の会話の二か所で出てきた「くさはひ」は、辞書に示される意味としては「物事の種、原因」であろうが、物語の上では、玉鬘を「おとり」にして男たちをおびき寄せようとしている。

しかも、世間に対して、自分の子でない玉鬘を自分の子であると(いつわ)ってそういうことを企むのであるから、光源氏という男は、「うそつき」で、誠実さに欠ける人物であることが明らかである。

さらに、紫の上に、次のように言う。

光源氏「本当のところは、あなたがもっと若かったころ、このようなことを思いついていたら、あなたをこそ、そのように扱ってみたかったものです。思いが浅くて、そのようにしなかったことが残念です」

なんということを言うのか。紫の上の立場からすると、これまで必死になって光源氏を支えてきたのに、自分のことをこれくらいにしか思っていない。これこそ、まさに「けしからぬこと」である。なぜ紫の上を正妻にしないのか、不審でならない読者の立場から見ても、光源氏が紫の上をこの程度にしか見ていないことに、驚くほかない。

いずれにせよ、光源氏は、異常な感覚の持ち主である。物語の作者は、ここにそれを明確に示した。