大学生活と同窓生

そのころ学内の独身寮から出て下宿することにした。

アルバイトと奨学資金で多少の余裕ができたからだ。その下宿は大学の近くにある銭湯の二階だった。

政裕は親友の坂田と六畳一間を借りた。

しばらくして隣の八畳間に高校の体育の先生が入居してきた。そこで新婚生活を始めるためだった。部屋の境は襖一枚。政裕は坂田に俺はここから逃げ出すがお前はどうするかときいたら彼は一向構わんよと言った。

下宿の部屋代はそのままにして政裕は吉川銀次郎教授に事情を話した。官舎の書斎一間を貸してもらうことになり布団を持って転がり込んだ。今から思えば厚かましいことをしたものだが先生も無頓着の様子だった。奥様といつも二人居間でくつろいでおられた。暇な時は庭いじりされていた。

映画を観るか家庭教師のアルバイトで遅く帰ると玄関に鍵がかかっていて、窓から忍び込んだこともある。

三年になってから少しは真面目に勉強するようになった。講義に英語の原書が使われる科目が増え、英語の勉強にもなった。化学実験も各種の分析機器など使い、文献の検索方法とレポートの書き方など実践的な手法を学んだ。

大学四年は卒論の実験が主な日常となった。それと家庭教師のアルバイト、夜になるとよく飲みに出かけた。年が明けると今でいう就活が始まる。

長池助教授が卒論の指導教官で大企業の就職先を数社紹介してもらい受験したが、学業の成績が今一つで、コネも全くないし、ある会社では面接で支持政党は何かと聞かれて、つい左がかったことを口走り失敗。

当時は労働組合の闘争的な運動が世間にはびこっていたのだ。その年は就職難ではあったが学友たちは次々と決まっていくなかで焦りを感じていた。

長池助教授も心配してくれて、三学年の時に実習した西洋化成品を推薦してもらい東京本社で試験を受けた。

試験問題はかなり専門的で火薬講座に関係したもので難しかったが、とにかく就職することができた。

大学入試もそうだが就職も人生の大事な分岐点だった。

西洋化成品福岡工場入社

念願の就職を果たした。

時に一九五六年四月一日。当時の西洋化成品は炭鉱、土木向けの火薬類と朝鮮戦争特需後の軍用火薬類、ロケット推進薬など多種多様な製品で活況を呈していた。

配属された工場は以前大学三年の夏実習した同じ福岡県の工場だったので“勝手知ったる他人の家”のような感覚だった。

現場実習は省略され、技術課研究室配属となった。十数人のスタッフは忙しそうだったが、室長からは仕事に関する指示は何も出なかった。

技術課長は以前実習の時いつも終業後一緒に実習した級友の村上君と碁を打っていて政裕も観戦していたのですでに互いに見知っていた。その技術課長からも研究テーマの指示が出なかった。工場長は東大出で政裕の大学での指導教官と同じ学部の先輩だった。