大学受験と祖父母との別れ

試験のあと福岡の叔父の家に向かい、結果の通知を待ったがなかなか来なかったので諦めかけていたら“化学合格”の電報を受け取った。だが機械工学科ではなかった。

他の学科の中で工業化学科が選ばれたのはなぜか。電気工学、鉱山工学、金属工学などもあり得た。口頭試問の時の雰囲気から兄が工業化学科に在籍していたことが寄与したような気がした。

いずれにしても薄氷を踏む思いの合格が政裕の丹波脱出を達成させてくれたのである。表口から裏口入学できたようなことになって、幸運とか温情みたいなものの存在を感じた。

翌日、夜行列車を乗り継いで丹波に帰った。政裕が小学五年の夏、福岡から丹波に連れていかれた時は旅行が悲しかったが今度は嬉しくて眠れなかった。

ついに丹波脱出を果たし感無量だった。この一連の大学受験の出来事を一生忘れることはない。

政裕の技術者への道を開いてくれた。

一九五二年四月、別れの日、祖父母が流した涙が目に焼き付いた。義理の祖父母ではあったが、別れるとなると八年間生活を共にした間にできていた心情がこみ上げて、後ろ髪引かれる思いがあった。

特に祖母は政裕を本当の孫のように思っていてくれた。苦しかった生活からの脱却の喜びとは裏腹に祖父母の今後のことを思った。あとは純造叔父の出番だと思った。叔父は生活に最低必要な金を送ることだけですべては政裕が面倒を見ていた。

政裕は一生のことを決める瞬間に立たされていた。

純造叔父がそれを理解してくれるかどうかの問題であり、これからは自分のことは自分で決めて行動するのだと思った。だが、祖父母を置いて家を出ることがその後の政裕の心の片隅にしこりとなって残った。

大学生活と同窓生

入学当初、なぜか丹波から抜け出した喜びよりも深い虚脱感があった。

これから先、学費と生活費の目途が立たない。兄はすべてアルバイトと日本育英会の奨学資金で生活していたが自分は自分で何とかしなければならない。長兄が大阪で就職していた関係で大阪府育英会の奨学資金を申請し数か月後受理され、日本育英会も継続できたのは想定外の幸運だった。

両親がないという条件が却って幸いしたのだ。しかしまた借金が増えることになった。中学から大学までの奨学資金という名の借金が増えるばかりだ。

後年、結婚した時、妻は奨学資金の返済額が大きいのでびっくり、借金を抱えているとは思いもよらなかったし、以後家計のやりくりに苦労を掛けることになった。申し訳ない。

思えば自分の人生のほとんどの期間、借金ずくめだった。その返済に人生をささげたようなものだ。

不足分の稼ぎに家庭教師のアルバイトを探すことになった。