教養科目の講義はどれもあまり興味が湧かなかったし、数学も参考書を買って勉強したが理論が難解で政裕の頭のレベルでは付いていけなかった。
英語だけは高校時代に基礎構文など長兄が送ってくれた参考書を自習していたので成績はまずまず、化学分析実験も頭より手を使うので熱が入った。あとの科目は全部平均点あたりをうろうろ。最初の一年は特に勉学に打ち込めなかった。
二年目は三年に進級できるかどうかに響くので頑張らなくてはと思ったがやはり学問に好き嫌いが激しく単位を取るのがやっとという状態だった。
そんな状況の中で、入試で手古摺った物理の講義で藤田哲也助教授の教科書なしの経験に基いた体験談を聞くのが面白かった。彼は気象学の分野で東大に博士論文を提出していた。
彼は機械工学科の先輩で九州工大の前身、明治専門学校時代に彼が研究課題としていた竜巻についての論文に関連して政府から広島原爆の被害調査を依頼されたことがあった。
政裕は高校時代に気象の研究のクラブ活動をしていたこともあって、この講義だけは皆勤だった。藤田助教授はその年にシカゴ大学に招聘され九州工大を去った。
アメリカでは竜巻の研究で名声を博した。竜巻の大きさにフジタスケールと呼ばれてた階級をつけられた。シカゴ大学の名誉教授になり日本でも受勲された。
政裕が大学時代に丹波に帰郷した際、中学三年の時の英語の先生に通りがかりに偶然出会って、政裕が九州工大に在学している話をしたら、彼は小倉にあった外国語学校在学中、藤田先生が助手だったと思われる時代に彼の自宅に下宿していたと言った。
丹波と北九州とが関連した人のつながりが偶然の事実だった。哲学は最初の講義でこれはとても付いていけないと思ったのでほとんど欠席していた。だがこの単位がとれないと一年留年になる。
期末試験には出るだけ出たが解答らしきものは書けなかった。教授に呼ばれたので恐る恐る顔を出したら、先生に『何でもよいからテーマを探してエッセイを書いて持ってこい』と助け舟を授かった。
何を書いたか覚えていないが何とかなったらしい、留年をまぬがれた。同期生の中の数人が二年で姿を消した。
その一人で親しくしていた庄司が東京大学農学部編入試験に通ったと言ったのでびっくり。
そういえば彼は夜遅くまで毎日勉強していた。彼は指導教官だった長池先生の自宅へ政裕も同行して退学の報告と別れの挨拶に伺った。
先生曰く、『人間、看板よりもその中身だ、その事を忘れるな』、そこで彼が言ったことは『東大は憧れの大学でそのために一年浪人したがもう一度トライしたのです』。何年後だったか忘れたが彼から手紙が来て、ある著名な薬品会社の社長令嬢の家庭教師になり、そのあと社長に見込まれて婚約したとか。
やはり看板の威力は凄い。