巡礼 会津若松Ⅱ
会津若松市街の戊辰戦争の故地は、時計の文字盤で12時の位置を鶴ヶ城とすると、11時の方向に、自刃した西郷一族の婦女子の眠る寺と、新政府軍がそこに大砲を据えて城に激しい砲撃を加えた小田山が、10時の方向には「反逆首謀者」として斬殺された会津藩家老萱野権兵衛の眠る寺が、7時の方向には、飯盛山や当初会津軍の前線基地となった滝沢本陣、それに降伏後、藩主松平容保が謹慎していた寺がある。
時計の文字盤の右に移ると、5時の位置が会津若松駅、4時の位置が新政府軍の死者を、そして3時の位置が会津藩の多数の死者をそれぞれ葬った寺となっている。
写真で見る戊辰戦争当時の弾痕の痛々しい鶴ヶ城の天守閣は、1874年に取り壊されており、現在のそれは、50年ほど前に鉄筋コンクリートで再建されたものである。
しかし2011年に戊辰戦争当時と同じ赤瓦に葺き替えられたその天守閣は、凛々しく会津の街に聳えている。
この姿が戊辰戦争時には砲撃の格好の目標となり、天守閣の東、今は美しい芝生の広場となっている本丸に立つ御殿と共に弾雨に曝され、籠城した多くの男女が死傷していった。
本丸跡のベンチに座り、その光景を想像する。
天守閣の最上階に上がる。360度展望が開ける。しかし、東に連なる山々までの距離がいかにも近い。新政府軍が大砲を据えた小田山は指呼の間にある。もう少し盆地の中央寄りに築城できなかったのかと思う。
小田山は、今は公園となっている。公園といってもただの山である。
3月に登った時には所々に残雪があった。
入口に「公園近くで熊が目撃されました、注意」の貼り札があったので、恐る恐る進んだ。
木々が少ないので眺望は良い。いく曲がりか、出合い頭に熊と鉢合わせしないよう、大きな音を立てながら歩き、新政府軍の砲陣跡に達する。砲陣跡といってもただの山の斜面であり、目印に小さな説明板があるだけである。眼下の城は手が届きそうである。
説明板には「天守閣まで1360メートル。大砲の射程距離1500メートル」とあった。
熊に会わぬようそそくさと山を下りた。
鶴ヶ城大手門前の西郷頼母邸で自刃した21人、頼母の家族9人と一族の者12人、の眠る寺は小田山の西の山麓にある。
狭い道路を左に折れて緩斜面を少し上がると寺の竜宮門があり、本堂や庫裏があり、左手を取ってその裏に出ると、疎らに木の生えた広々とした山腹に墓地が広がっている。
その上のほうに小さな鞘堂に覆われ、下半分が正午の日射しを浴びている墓石が21人のそれであった。斜面の下のほうには西郷頼母夫妻の墓が、また墓地の入口には、
「戊辰の役に殉じた名前のわかっている233名の婦女子の偉業を留め、霊を慰める」ためとした「なよたけの碑」があった。
新政府から戊辰戦争の「反逆首謀者」と名指しされ、会津藩でただ一人斬首された萱野権兵衛の眠る寺は、東山温泉のほうから流れ下って来る湯川によって小田山と隔てられた向かいの山地の麓にある。
新政府が会津藩及び会津藩と共に新政府軍と戦った奥羽越各藩に「反逆首謀者」を調べ出して申告するよう申し渡した時、新政府はそれをすでに死亡している者でもよいとしたため、多くの藩がすでに自刃しあるいは戦死している者の名を届け出た。
会津藩でもすでに自刃していた家老二人の名を届け出たが、一人くらいは生きている者の首を差し出さねばなるまいと思ったのか、あるいは第一次長州征討の時長州藩が家老3人の首を差し出したのに倣ったのか、上席の家老であった萱野の名前を申告した。
萱野は東京で斬首となり、その遺骸は東京の寺に葬られたが、この会津の萱野家の墓地にも萱野の墓が設けられた。