巡礼 会津若松
この寺にはまた、近藤勇の墓があった。
旧幕府新選組の近藤勇は、甲府城を占拠しようと新選組の残党や旧幕府脱走兵で甲陽鎮撫隊を組織し、甲州勝沼で板垣退助の率いる新政府東山道軍の支隊と戦ったが、大敗した。
この後近藤はいったん江戸に逃れ、軍を再編して下総流山に滞陣しているところを、宇都宮に向かう東山道軍の一隊に偶々発見され、4月3日に急襲された。
土方歳三などは逃れたが、近藤は戦うことなく投降、板橋の東山道軍総督府に護送された。
4月25日、近藤は斬首され、その首は3日間晒された後、京都に送られ、三条河原で再度晒された。その首を同志の者が奪ってこの地に運び埋葬したという。
近藤の墓は、萱野家の墓地に行く途中で左に折れ、高処を一つ越して少し下がった所にあり、大事に守られているように見えた。
飯盛山からも鶴ヶ城の天守閣はよく見える。確かにその手前の武家屋敷街が煙に包まれれば、城が落ちたように見えたであろう。いかにも残念な見誤りであった。麓の記念館の説明に「士中二番隊42名、大人5名、隊員37名」とあった。大人とは年配者のことか。とすれば、5人もの大人が付いていて、彼らは何をしていたのか。
七日町、時計の3時の位置、には、会津藩士1300名余りの眠る寺がある。
会津藩の降伏後、会津に駐留した新政府の出先は、城下に散乱する会津藩死者の遺骸の片付けを許さず、遺骸は野犬に食われ、野鳥に啄ばまれ、あるいは異臭を放つにまかされていた。
嘆願を重ねた結果、やっと1869年2月になって、遺骸の埋葬が許され、その多くがこの寺に運ばれた。本来はここが戊辰会津戦争の最高の聖地とされてしかるべきであるが、そのようには扱われていないようで、訪れる人が少ないのは寂しいことである。
2018年9月、私は米沢駅から米沢城址を目指して歩いていた。
残念ながら上杉鷹山の米沢も過疎化の波に呑まれつつあるようで、駅からの通りはだいぶ寂れて見えた。そんな中に、ある寺の前に「堀粂之助の墓」と案内板があった。
1868年8月下旬、会津藩は新政府軍に城を囲まれ、落城も時間の問題という苦戦を強いられていた。そこで藩では米沢藩に救援を求めるべく使者を送ることになった。
選ばれた二人の使者は8月23日に城を出、新政府軍の厳重な囲みをどうにか潜り抜け、9月3日になってやっと米沢城下に辿り着いた。しかし米沢藩はこの時すでに新政府軍への降伏を決めていたため、救援の要請を断った。
使者の一人、堀粂之助は使命の達し得ないことを知ると、宿舎で自刃して果てた。