それから二週後の一月中旬、父親と本人が予約日に合わせて受診してきた。父親に状況を聞くと、「最近頑張って登校し始めています」と嬉しそうだ。
「どうして行けているのでしょう」「四月には転勤になるので頑張っていると思います」
そのあと、本人とこんなやりとりをした。
「学校行けるようになったんだってね。すごいなー」
「どうして頑張れるようになったの」
「暴れる子たちもつらかったんだという先生の話を聞いて……」
「そうか、その子たちもつらい思いをしているんだと思えたんだね。君はやさしいなー、えらい!」
「ぼくに話しかけてくる子も出てきたので行きやすくなった……」
乱暴な子たちの生い立ちに思いを寄せ、やさしいまなざしを向けたことで、乱暴な子たちが変わっていくことを実感したのであろう。こういう介入法は部外者で第三者である医師がやったからこそ、通用したのかもしれない。
当事者に近い親や教師がそういう介入をしても「操作しようとしている」というバイアスがかかり通用しなかったかもしれない。見方を変えると、相手も変わることを子ども自身が体験を通して学んだケースのように思えた。