この歌を受け取った近江の君は、「私を待つ(松)と言ってくださった」と、大喜びである。
この後も、近江の君の珍妙な喜劇が続く。内大臣は、あきれてしまって、「難しい問題があるときは、近江の君を見ていると、気が紛れてよい」と言って、自分の娘である近江の君を「笑い種」として、思い貶めている。
末摘花 「わが身こそうらみられけれ唐衣君がたもとになれずと思へば」(③三一五頁)
(あなたの袖にもなれない(あなたから冷たくされている)わが身を思いますと、恨めしい限りです)
末摘花は、光源氏に身を寄せている玉鬘(実父は、内大臣)の裳着の祝いの品々を届けてきたが、小袿の袖の中にこの歌が入っていた。
裳着の祝いを届ける立場でもないのに、自分が親王の姫君であることにいつまでも固執して、古いしきたりを墨守する末摘花に、光源氏は、舌打ちをしたくなる思いでいる。
これ以前、黄色くなった厚手の陸奥国紙を使って歌を届けてきたことがあった。光源氏は、それを思い出していただろう。
しかも、末摘花の「わが身こそ」の歌は、光源氏に恨み言を言っているだけで、裳着の祝いの趣旨にかなっていないし、相変わらず「からころも」と詠んでいる。実際、末摘花の歌には、始終、「からころも」が詠み込まれている。
光源氏は、腹立ちまぎれに、返歌を詠んだ。
光源氏 「唐衣またからころもからころもかへすがへすもからころもなる」(同)
(からころも、またからころも、からころも、何度も何度もからころもです)
この歌を聞いて、玉鬘は、「からかっているようで、お気の毒です」と、末摘花に同情するが、光源氏は、「あの人のお好みの趣向だから、これでよいのです」と笑って、取り合わない。
紫式部は、「ようなしごといと多かりや」(③三一六頁)(役にも立たないことをたくさん書いてしまったかしら)と書いて、この挿話を終わりにした。
(1)いとかうばしき陸奥国紙のすこし年経、厚きが黄ばみたるに(③一三七頁)
お布施
光源氏の年若い正妻である女三の宮は、柏木と密通して、御子(後の薫)を出産した。
女三の宮は、光源氏の陰湿ないじめに耐えかねて、出家。それから二年後の夏のことである。
女三の宮の持仏の開眼供養が行われた。
今回の供養は、ごく内輪で行う予定だったが、それでも光源氏は相当に盛大な用意をした。それに加えて、帝や女三の宮の父である朱雀院から使者が遣わされ、各方面からもお供えなどが寄せられるので、思いがけず大掛かりなものになってしまった。
供養が終わって帰ってゆく僧たちの様子について、物語は、「僧たちは、寺に帰っても置き場所に困るほどたくさんのお布施をもらって、ほくほくしながら帰っていった」とする。
紫式部は、僧たちに尊崇の念を抱いているようには見えない。
(1)夕の寺におき所なげなるまで、ところせき勢ひになりてなん僧どもは帰りける(④三七八頁)