近江の君
内大臣(かつての頭中将)は、何年も前に行方知れずになった女性(夕顔)とその娘(撫子、後の玉鬘)のことを思い出し、「もし自分(内大臣)の子だと名乗る人がいれば、聞き逃さないようにせよ」と言っていた。
それを伝え聞いて名乗り出た女性がいた。内大臣の息子である柏木がそれを耳にして、内大臣邸へ連れてきた。近江の君である。柏木は、証拠があることを、一応確認したらしい。ところが、邸内の人々は、近江の君のことを悪しざまに言う。これを伝え聞いた光源氏が、「底まで澄みきっていない水に映る月影は、曇りがないわけがない」などと言っていることも、内大臣の耳に届く。
内大臣は、この姫君をどう扱おうかと思案する。もっともらしく迎え入れて、評判が悪いからといって、いまさら送り返すのも愚かしい。人目に触れないように邸内に隠しておくと、大事に育てているのだと人は言うだろうが、それも困る。そこで、弘徽殿女御(内大臣の姫君)のところで仕えさせることにし、愚か者ということになれば、それはそれでよいことにしようと考えた。
内大臣が近江の君の部屋を覗くと、五節の君という若い女房と双六をしている。近江の君は、しきりに揉み手をしながら、「小賽、小賽」と、大変な早口で掛け声をかけている。これに対して、五節の君は、「御返しや、御返しや」と叫ぶ。二人とも、薄っぺらな感じである。
近江の君の姿形は、小柄でかわいらしく、髪も美しくて、不器量ではないが、額が狭いことと声がいかにも軽いこととで損をしているようだ。内大臣が鏡で見る自分自身の顔つきを思い合わせると、残念ながら、赤の他人だと言い張るわけにはいかない。内大臣は、近江の君に語りかける。
「私の身のまわりの世話をしてもらおうと思っていたが、そうもいかない。誰それの娘というような人目につく立場だと、親兄弟の不面目なことが起きかねない。まして」
と言いかけたが、近江の君は、内大臣が何を心配しているのか、考えようともしないで、
「慣れてくれば、何でもないことです。『大御大壺とり』でもいたします」
と、こともなげに言う。「大御大壺とり」とは、便器掃除のことである。内大臣は、「それは、あなたにふさわしい仕事ではない」と言って、苦笑するほかない。弘徽殿女御が里下がりなさるときには女御のところでお仕えするようにと、内大臣から言われて、近江の君は大喜びである。
この後、近江の君が珍妙な歌を女御に贈り、女御が困ってしまわれるなど、喜劇は続く。玉鬘が尚侍になるらしいことを耳にして、自分を推薦してほしかったのにと、女御に文句を言ったり、夕霧に歌を詠みかけて、そっけなくあしらわれたりして、近江の君は、まわりの人々からバカにされる。
『源氏物語』の時代、高級貴族のご落胤を名乗る女性で、近江の君のように、教養がなく、常識をわきまえない人がいたのだろう。作者の紫式部は、それもまた、貴族社会の一面であると、冷やかに見つめていたに違いない。