序 ─ 嘉靖九年、われ自宮(じきゅう)し、黒戸(ヘイフー)の宦官となるの事
いよいよ諸官とならんで、箒(ほうき)と雑巾を手にしてみると、夢も、希望も、すっかり萎(しな)びてしまった。
「新任は、水を汲んで来いっ! 先輩の所作を、よーく見ておけよ」
小柄な、年配の宦官がひょこひょことあるいて来て、われわれの前に立った。
ああ、あの人は……!
記憶がよみがえる。私が自宮するまえ、柴禁城の外、繁華街へとつながる道ですれちがった、雛(ひよこ)のような歩きぶりの老宦官。
まじまじと、その顔を見た。 六十歳くらいだろうか。宦官の年齢は、見た目からは、わからないことが少なくない。陰嚢(いんのう)をなくした結果、ひげはなくなり、顔の輪郭もしだいに丸みをおびて来て、年輪を感じさせる特徴が、とぼしくなるからである。
彼は腕をたくしあげ、ひしゃくで糞をすくっては、小桶に入れていった。溝穴にこびりついている場合には、篦(へら)をつかってこそげ落とす。あらかたきれいになると、まわりの者が水を流し込む。
「おい、そこの、若いの。香(こう)をもって来てくれ」
言われても、どこにあるのかわからない。老宦官は肩をすくめ、自分で倉庫の扉をあけ、香をとりだした。
「新顔じゃな。早いとこ、どこに、何があるかを、おぼえるんじゃ。でないと仕事にならんからの」
香炉に盛られた栴檀(せんだん)に、火がくべられた。煙とともに、芳香がただよってゆく。
「あの……城外に、出られることはありますか? 実は、以前、あなたさまを見かけたことがあるんです」
「ほう……?」
老宦官は、ふしぎそうな一瞥をくれた。
「ワシは、めったに城外に出ることはないんじゃがな。月に一度、つれ合いの墓参りに、行くくらいのもんじゃ」
「お名前は」
「魏信(ウェイシン)、仲間うちじゃ『老魏(ラオウェイ)』で通っておるがな。わからんことがあったら、ワシに訊け……おっ、あれを見ろ」
南北にのびる通路には、ところどころ大きな門があり、そのうちの一つがひらいて、見るもあでやかな衣裳を着た人々が、出入りしているのが、うかがえた。
「張(チャン)皇后陛下が、ここを通られる。道をあけて、ひざまずくのだ。頭をあげてはならんぞ」
背中をまるめ、亀さながらに首をひっこめつつも、目は、チラチラと横へながれた。
(あれが、皇后さま……)
一同、神妙に首を垂れる前で、金雲龍文(きんうんりゅうもん)をあしらった紅の鞠衣(きくい)が、とまった。
「ここを掃除したのは、だれ……?」
凜とした声が、宦官どもの項(うなじ)に降った。
「だれなの?」
ひそとして声もなかったが、ややあって、老魏(ラオウェイ)が返答した。
「……私めにございます」
―いったい、どうなるのか?
私は気が動転していて、禁をおかして、顔をあげてしまった。そして目にとびこんで来たものに、驚いた。宦官どもにかしずかれて、立っているのは、うら若き乙女であった。
翳りのある眸(ひとみ)と、かたく結ばれた朱唇に、笑顔はない。
「おまえか?」
「はい……」
老魏(ラオウェイ)が、こたえた。緊張が走る。諸官は、固唾(かたず)をのんで、つぎの言葉を待った。
「この香りはなに?」
「栴檀(せんだん)にございます」
「ふうん」
張皇后は目をとじて、つめたい空気をいっぱいに吸い込んだ。
「とってもいい香りね。おまえの好みなの?」
「滅相もございません。これは、倉庫に常備されている品でございまして……」
張皇后は、お付きの宦官に声をかけた。
「孟朗(マンラン)」
「は」
ふり返った宦官に、私はまた驚いた。颯爽たる清雅の微笑。水気があふれて、したたりそうな美貌である。
「坤寧宮(こんねいきゅう)の清掃は、いつなの?」
「趙三芳(チャオサンファン)によれば、明日の朝になると」
「じゃあ、うちでも、この香を焚いてもらってちょうだい」
「御意」
孟朗(マンラン)とよばれた宦官が、老魏(ラオウェイ)に目くばせした。
「太后さまがお待ちです、いそぎましょう」
一行は、何事もなかったかのように、通りすぎて行った。
「どうなることかと思いました。あれが、皇后さまなんですね」
「そうじゃ」
「……予想以上にお若くて、びっくりしました」
「おぬし、いくつになる」
「二十五ですが」
「万歳爺(ワンスイイエ)(皇帝)は、おぬしのひとつ下じゃよ」
「ええっ」
「そういうわけじゃから、皇后さまも、妃嬪(おきさき)がたもみな、おぬしよりはお若いであろうのう」
「どこへ行かれるんでしょうか?」
「さだめし仁寿宮(じんじゅきゅう)じゃろう。太后さまと皇后さまは、仲がいいらしいでのう。お二人とも姓は張(チャン)だし、血のつながりがあるのかもしれんな」
「太后さま……でございますか」
「知らんか。ほれ、先代正徳帝のおん母君じゃ。万歳爺(ワンスイイエ)でさえ頭があがらん、序列第一位の貴婦人じゃ」
「その皇后さまのお住まいが、仁寿宮(じんじゅきゅう)」
「そうじゃ。こうして宮中で仕事をしていると、しばしば高貴な方々に出くわす。万歳爺(ワンスイイエ)、皇太后さま、皇后さま、側室の妃嬪(おきさき)がたもな。礼を失してはならぬぞ、その首を、胴にくっつけていたかったら――おお、午(ひる)の鐘が鳴った。休憩しよう」
老魏(ラオウェイ)が、こっちへ来いと手招きした。脳裡には、美しいにはちがいないが、表情にとぼしい、張皇后の横顔が浮かんでいた。まるで蠟細工のようだ、と思った。
「……皇后さまは、いつもあんなお顔なんですか? 笑顔がないというより、生気がないように見受けたのですか」
「それを言うでない」
ぴしゃりある。だがひと呼吸おいて、老魏(ラオウェイ)は言った。
「……宮中にお仕えするようになったのだから、そなたも知っておいたほうがよかろう。いまの皇后さまは二人目での。即位されて、まだ二年ほどにしかならん。嘉靖帝が即位されたとき、最初にめとられた陳(チェン)皇后は、気性の激しいお方での。そのころ、いまの張皇后は、まだ側室の順妃(じゅんぴ)じゃった」
宮中では、皇帝の正室を后(こう)、側室を身分の高い順に、妃(ひ)、嬪(ひん)とよび、厳然たる区別がなされている。
「ある茶会の席で、万歳爺(ワンスイイエ)は、妃が茶を淹れるのをじっとご覧になっておられた。そのときじゃ。陳(チェン)皇后が、どういうわけかいきなり茶器をほうり投げて、立ち上がられた」
「熱い茶の入った……? どうしてそんな?」
「しもじもにはわからん。茶席を前にして、喧嘩なさっていたのかもしれんし、万歳爺(ワンスイイエ)がほかの妃ばかりご覧になるものだから、妬(や)きもちを焼かれたのかもしれん。とにかく、居ならんだ妃のなかには、やけどをした方もいた。無礼なふるまいに、万歳爺(ワンスイイエ)は激怒なさった。それが、たいへんな剣幕での。このとき陳(チェン)皇后は身重で、は
げしくなじられるあまり、とうとう流産してしもうた。惜しいことをしたもんじゃ。生まれておったら、ゆくゆくは皇太子となられるお人だったわけじゃからの。皇后さまは、出血がひどかった、あとを追うようにして、亡くなられた」
老魏(ラオウェイ)は、声をおとした。
「陳皇后は、見殺しにされたというのが、もっぱらの噂じゃ。出血のとまらぬ陳皇后をほったらかしにして、手当てもされなんだらしい。もっとひどい噂もある」
老魏(ラオウェイ)はそこで、口をつぐんだ。
殺されたの……か?
皇帝が崩御されたときなど、皇后以下の妃嬪もまた、殉葬される――と聞いたことがある。朝、ならべられた豪華な料理に箸をつけたあと、順番に首を刎(は)ねられるのだ。
陳(チェン)皇后の場合は、冥界へ旅立った皇子が、さびしくないようにと……?
「皇后位は空席となり、序列のうえでは最上位だった張(チャン)順妃が、即位された。皇后さまにしてみれば、なりたくもないのに、即位させられたといったほうがいいのかもしれん」
泣いているような、翳(かげ)りのある横顔。
張(チャン)皇后は、即位した経緯に、帝室の底知れぬ冷酷さを、看てとっているのかもしれなかった。