その後も仕事の業務量と責任は少しずつ増えながら経験を積んでいった。翌年4月に、私は会社の昇給時期であったことも鑑み、給与を上げてほしいと嘆願した。

しかし、会社は「1年待ちなさい。それから調整するから」という判断だった。

確かに、資格を取得したからといってそれだけを査定の材料とするには厳しいものがあったと思う。資格をもってそれを経営に活かし、会社の理念や社会的要請に対して貢献出来たのか、そして会社の生命線である必達利益に到達出来たのかによって評価されると、今では理解することができる。しかし、当時はそこまでの考えに至らず、苦い気持ちでいっぱいだった。

社労士資格を取得し、上司に報告した時に上司の顔色が冴えなかったのは、資格取得をしても会社からすぐに評価をされるわけではないと理解していたからに違いないだろう。若さゆえの先行はこれまで何度も行ってきた。しかし、すぐに会社を辞めるという選択をすることは、「仕事を行っている社会的な責任」、「家族を守るという家長としての責任」から許されなかった。

その結果、会社のいう通り1年待ち、今後どうするのか結論を出すことに決めた。そして、この1年間で吸収できうるありとあらゆる技術や知識を増やすことに専念した。我慢の1年が過ぎ、28歳の4月を迎えた。1年間の熟考の上、下した答えが「他の世界を見よう」「自分の力を試してみよう」というものであった。

一定の恵まれた環境の中にいれば、そのまま安定した変化のない生活を送ることができただろう。しかし、自分の力を試したいという感情をこれ以上抑えることができなかった。

唯一、心を過よぎったのは家族のことである。妻と2人の子どもがおり、翌年にはもう1人増えるのである。このような不安定な生活に巻き込んでもいいものだろうか、挑戦したい気持ちがあるけれど……と決断を躊躇していた時、妻が「やりたいならやってみたら?」と私の背中を押してくれた。

(のち)に妻は「やりたいならやればいいし、止めたところでやりたいことはやりたい人だから」と子どもと話していた。妻は私の性格を熟知していたのであろう。熟考の上の決断に反対はしなかった。ここで留まる事こそ自分に許される選択ではなかったのである。この妻の一言が私の決断を断固なものとし、改めて覚悟が決まった。