景気に対する金利引き下げ効果が失われるゼロ金利のトラップどころではない。金利トラップを凌駕して余りある、技術進化による現代貨幣論が仮想の通貨を発行する時代である。通貨も国債もデジタルで刷ったことにすればよいとの議論になる。

逆に言えば、情報化を野放しにすれば国家や通貨主権を守る中央銀行ですら何が嘘か真実か分からないという二重信用の時代に突入し、その最大の要因が自ら進める情報化技術にあるという矛盾だ。発展途上の技術がもたらす社会的均衡に対する矛盾と考えてもいいのではないだろうか。

信用の二重化に伴うリスクが生み出す弊害は将来も含めて表に出てこないのかどうかも今は分からない。

技術の日進月歩を考えればこの発展途上の段階で通貨主権における情報化を論理的に議論し、デジタル通貨の二重信用と同時に物理的な現金通貨の存在意義と通貨データ構築のためのサーバーの設置場所を安全性の観点から検証すべきだ。

カネというアプローチで信用の二重構造を作り出した情報化は、国家や企業、そして個人の対処すべきリスクを複雑にする。すべては、デジタル情報が現実の事象を表すという誤解に基づくものであるにもかかわらず、その誤解の世界ではそのデジタルリスクに対処しなければならない。これが本当の仮想というものではないだろうか。

仮想通貨や仮想現実という言い方がされたが、仮想通貨は暗号資産と言い換えられる。

では、仮想現実は何と言い換えられるべきか。

現実もどきと言うが、やはり仮想現実は現実ではない。映像におけるデジタルとアナログの世界は違う。デジタル映像は実像の構造点を組み上げたものだ。アナログ映像は実像の構造点を写し取ったものだ。計算とコピーの違いであると言える。映像におけるデジタルとアナログでも違うのに、デジタル映像と現実像はまるで違う。

目も違う。デジタルカメラと人の目は違う。

情報化の内容は事象のほんの一部を切り取って、デジタルなら0と1で再構築し、アナログなら解像点の写しである。

しかし、カネのデータログとしての世界から、モノを動かす現物の世界に目を移すとき、そのデータログは0と1の分類だけでいいのか? それが次の時代の電動化、すべてのヒト・モノが動ける、動かす、移動する世界にはヒトの筋肉と同様な数式の自律分散化が必要なのではないか。

カネの世界も仮想通貨のように自立化を目指す動きがブロックチェーン技術を使って活発化し、中央集権体制のデータログである国家通貨、ひいては国家主権への挑戦を続けることになる。中央集権体制は本来バラバラになることを内在させた0と1の電子化をとりまとめようとする儚い動機のもとに技術経過的に成り立ってきたと考えられないか。

0か1のフラグメンテーションが情報化の帰結であり、それを対処的に回避しようとする中央集権化がカネというデータログの一部を使って試みられてきたことが十八世紀以来の資本主義の短い歴史であると仮定するなら、マルクスの社会経済史論としての金融と労働の上部構造・下部構造の設定は正しい。

上部構造が0と1であるなら、下部構造は0と1の間である。上部が中央集権的であるなら、下部は自律分散的であるべきだ。

二十一世紀に入ってからの科学技術の話題と言えば、まだまだ情報通信技術であり、その象徴として人工知能(AI)が常に出てくる。

しかし、機能的に特化したAIはまだしも、汎用的に社会に対応できるAIというものは本当にあり得るのだろうか。