「0と1のデータログがもたらす誤謬」可逆性と不可逆性の理解

二十一世紀に入って加速的に進む情報化は、要素技術としては電化におけるデジタル化の進展であると言える。

即ち、電気によってすべての事象を0と1のデータに分けることから始まり、半導体が新しくなるたびにデジタル化の精密度が増していく。

0と1のデータログが精密になるほどに、そのような0と1の分類及びその組み合わせの二進法の羅列が、ある事象のすべてを表していると誤解させる傾向を助長していると考えられないだろうか。

私たちはデジタル化がある事象の全貌を必要十分に表象していると勘違いしやすい。その誤解のうえでは、逆に、デジタルデータの0と1の羅列から現実が生み出されると考えてしまうかもしれない。

つまり、ある事象のデータ化は一部を表象するだけの不可逆的な数値化であるにもかかわらず、可逆性があるものと誤解して、データログから現実が再現され得ると考えてしまう。

人が仮想現実を仮想とせずに実物と見做すことの誤謬は、デジタル速度と精密度が高くなる今後にこそ留意が必要なリスクの本質だと思われる。

国民すべてが以前ならちょっと感覚が異なるのではないかと感じていたはずのオタクの人たちと同じ感覚でデジタル情報に接し、そしてなんとなく対応してゆくことになる恐れがある。

特に、仮想現実(VR、Virtual Reality)や拡張現実(AR、Augmented Reality)ならまだしも、現実と仮想を一体化した混合現実(MR、Mixed Reality)として、現実と仮想がスムーズに結合したときには私たちの生活の中で現実の認識を保つことは決して容易でないだろう。

いわゆるイディア(観念的実在)を自ら思考することもなく目の前に与えられるのだ。後に説明する電動化と知能化の段階でそれぞれ検討するが、例えばモノやヒトの場合で考えてみれば違いは明白だ。

電動化の領域では、モノであればカネで買ったものを値段は違ってもまたカネにすることはできる。あるいはモノをデータ化してそのデータからモノを作ることもある程度可能だ。

再販価格のように仲介するカネとしての値段が状況変化に合わせて違ってくるだけであったり、再現性のように仲介するデータの精度の問題だったりするだけだ。