「あやめ」

稽古仲間として呼び合っていた頃のような呼びかけに、あやめは自然に、何、という顔で促す。

「十郎殿は、とても私に良くしてくれるのだ、違う家どうし、立合では敵方に回るかもしれぬのに、そんな私に大事な技を、技だけではない、心の持ちようまで惜しみなく教えてくれる、それはなぜだろう」

あやめはちょっと呆れたような顔で、弥三郎の疑問に打ち返すように答えた。

「弥三郎のことが好きだからでしょう、弥三郎なら能の技も心もわかってくれると思うから、伝えられることは何でも伝えたいと、兄様はそう思っている」

何を今更わかりきったことを、とでも言いたげに、なんの迷いもなくあやめは言い切った。

弥三郎はしばし呆気にとられ、それから熱くこみあげるものに喉を塞がれるような感覚に襲われ、ぶるっと身震いした。

「そうか、そうだな……あやめ、ありがとう」

弥三郎は自分が陥っていた誤りに気づいた。

十郎は純粋に能が好きで、見返りも何もない好意から教えてくれていたのに、自分は何か借りを返さねばならないような気持ちになって、自分の持っている中で値打ちのありそうなものを差し出そうとしただけだった。

しかもそれは自分で会得したものですらなく、祖父から金春の大夫として預かったものであった。十郎はそのことを見抜いて、止めてくれたのだ。

あやめは、細かなことは知らないし、そんなことはどうでも良いとでも言いたげな顔つきで、にっこりと微笑んだ。

弥三郎はあやめの笑顔をありがたいと思い、今のこの気持を忘れまいと、胸の奥に深く刻み込んだのであった。