行こうかな、止めようかな
私はいま、北アルプスの山小屋八方池山荘前にいる。7月に入ったばかりで、まだ梅雨も明けていないのに、ただ時間が取れたというだけで、また山に出かけてきてしまった。
こんな悪天候では、唐松岳の頂上まで登っても、展望は期待できそうもない。頂上に向かうか、諦めるか、と迷う。上のほうから霧雨のなかを何人か下山してくる。
「わ~着いた、着いた」
「暖かいコーヒーが飲みたいな~」
六人が山荘の軒下に入ってきた。
「頂上からですか?」
と私は聞いてみた。
「唐松山荘を6時に出てきました」
とまだ息を切らしている。
その人たちを見て(よし、俺も行こうかな……)と、気持ちが高揚した。悪天候で朝早くからずっと迷っていた私の出発は、結局9時になってしまった。
山荘から八方池までの道は、両脇にロープが張られ、下には石がきちんと並べられた遊歩道だった。少し登ると、右手少し下のほうに池が見えた。八方池だ。水面は鏡のように光っていて、岸辺には雪が残っている。小雨も降っている。
私は山荘から池まで登ってきたが、(下山してきた人はいたが、これから登っていく人はいないみたいだ……)とまた迷い出した。とりあえず、池の近くまで下りて、足元に咲く花でもカメラで写そうと思った。
雪割草、スミレ、シラタマノキ、チングルマ、小岩鏡など、色とりどりだ。
(おや?)
私が登って来た道に人の姿が見えた。一人らしい。私は池から稜線に登りあげて、その人に向かって歩き出した。誰か自分の近くに人がいて欲しかった。
「こんにちは!」
と私が声をかけると、
「お一人ですか?」
と向こうの人が答えた。話してみると福島県から来たという。この人も一人だった。
「登っていく人、誰もいないんですよ」
と寂しそうに私が言うと、相手は私の心を見抜いたように、
「一緒に行きませんか?」
と誘ってくれた。結局、福島の人のあとについて、10時50分に八方池を出発した。
樹林帯に入ると太い白樺が姿を見せ始めた。幹の下のほうが曲がっている木が多い。豪雪に押しつぶされて真っすぐ伸びられないのか、足元に花が咲いている。
白いのはキヌガサソウで、薄紫色のふわふわした大きな花弁はシラネアオイだ。地図にある「下の樺」を過ぎ、さらに「上の樺」を出て、やがて白樺の林を抜けると、雪はさらに深くなり、大きな雪田に出た。
赤い布きれを付けた竹の棒が、道のこちら側と向こう側立っている。
「あそこに向かって進めばいいんですよね?」
と福島の人が私に声をかけた。雪を踏みしめて登る。地図で丸山というところに着いた。石が高く積まれたケルンがある。ここを過ぎると稜線の道になった。
濃霧のなかをひたすら登り続けて、唐松山荘に着いたのは12時50分だった。悪天候の二人だけ登山は、時間がひどく長く感じられたが、私は唐松岳についに来てしまったと思った。
八方池山荘の軒下に、あの六人が来なかったら、八方池で福島の人に会わなかったら、自分は唐松岳に来なかったかもしれない。
これまでの人生にも、あの人と出会ったからこうなったとか、あの人と出会わなかったら自分は別な道を進んでいただろう、という分岐点が何度もあった。
人生は人との出会いから成り立っているような気がする。