下宿生活三か月後にはそこを追い出され、瑞穂区の学生相手の下宿に引っ越しました。引っ越し先の下宿は長屋風の新築の建物で、玄関が裏手にあることから手っ取り早く正面の窓から出入りしていたところ、大家さんがやむなく石の台座を窓の下に据えてくれました。窓からの出入りを重ねるうちに、窓枠がだんだん歪み傾いてきて大家さんは渋り顔でした。

引っ越してまもなく、K君は門限オーバーで閉め出されると、深夜、私の下宿の窓をガラガラと開けて上がり込み、朝まで私のそばで寝ていました。

ある晩、門限オーバーで私の部屋の窓をガラリと開けて窓枠に足を乗せ這い上がろうとしたとき、悪夢でうなされ目覚めた私が寝ぼけまなこで跳ね起きてそばにあった座敷ほうきでK君の顔面を打ち払い、メガネをたたき落としたことがあります。

以来、彼は深夜私の部屋に入るときは、窓をおそるおそる開けて「おい、オオギミ、オオギミ、起きたか、起きたか、返事しろ!!」と繰り返し呼びかけ、私が完全に目覚めるのを待って恐る恐る窓枠に足をかけました。

新しい下宿先には、T君とA君らが部屋を借りていました。T君からは試験情報など大事な情報をいろいろ教えてもらいました。

ポリクリグループのA君が、私の隣の部屋に引っ越してくれたことはラッキーでした。夜八時頃になると、A君は壁をコンコンとたたいて合図し、当時としては珍しいケーキや果物をご馳走してくれたからです。

私の誕生日にはわざわざ大須まで連れて行ってもらい、豪華なビフテキのご馳走にあずかったこともありました。センスのいいおしゃれな服を着こなし、誰とでもにこやかに接し、女性的雰囲気を醸し出すA君は私にとって不思議な存在でした。一緒に銭湯に行ったとき、並んで頭を洗いながら本当に男だろうかとこっそりのぞいたら紛れもなく日本男子でした。

平成十二年二月、A君は胃がんで急逝しました。青天の霹靂でした。亡くなる一年半前、A君は幼児期を過ごした台湾旅行の帰りに沖縄に立ち寄ってくれました。ちょっと痩せてはいましたが、そんな大病に冒されているとは知らず、相変わらず笑顔を絶やさず「大宜見君は自由に生きていていいね」と、いつもの口癖が出たものです。

逝去を知り、焼香に訪れたA君宅の妹さんの話では、彼は一家を担う大黒柱としてご両親や弟妹のことを案じ、家ではめったに笑顔を見せないこわい兄だったといいます。

平成十一年五月、胃がんの宣告を受け、津島市民病院に入院したときも、誰にも知らせず、面会も受け付けず、一人病魔と闘い、最後まで弱音を吐かなかったそうです。

その生き様は、外面的には女性的雰囲気をかもしながら、内面は自己の信条を貫く古武士のような人物だったように思います(合掌)。