第一章 小児科外来点描
厳しい経営状況の中にありながらも、二○○四年から三週間の夏休みをとって、海外への旅に出ることになった。その理由は、私の冒険仲間で一緒にサハラ砂漠を旅した友人の千葉さんがタイの小島で咽頭がんで息を引き取ったからだった。
何度も手紙をやりとりしながら診療の関係で見舞いに行けなかったことがきっかけだった。三週間の夏休みを取ることを薬剤師の松田は心配した。長期の休みで患者さんが離れるのではないかという不安のある中、長期の夏休み計画を実行した。
四か月前から夏休み休診の案内を出し、丁寧に説明して了解を求めた。当初、困惑した患者さんも数多くいたが、やがて「今度はどこへ行くのですか」と聞いてくれる患者さんも出てくるようになった。
二〇〇七年夏、ニューヨークからロサンゼルスまでのアメリカ大陸六〇〇〇kmを、ハーレーで十一日間かけて横断する冒険ツアーに参加した。ツアーといっても全国公募で七十歳と六十六歳の老ライダーと六十八歳の私の三人だけのツーリングだった。
応募の二人はハーレー歴十年以上のベテランで、私だけがハーレー歴一年半のへっぴり腰ライダーだった。出発地のニューヨークでツアーの先導者から「予定通りに走行距離をこなすには時速一二〇kmを目標に走る必要がある」と念を押された。一日平均五百数十kmを目標として走るので、高速走行が不可欠だというのである。
高速走行を求められるもう一つの理由は、スピードの遅い大型トレーラーやトラックのパンクや脱輪による巻き添え事故から逃れるためでもあった。風邪ぎみと時差ぼけで一睡もできないまま、土砂降りのニューヨークの街を雨水で曇る風防を片手でぬぐいながらの出発となった。実は私は出発前から睡眠障害で困っていた。夜、頭を使いすぎて過覚醒・過集中が常態化し、寝つきが悪く眠剤を飲んで対応していたのだ。
ハーレーで走行中も、夜の寝不足が午後の睡魔となって現れた。昼食後に猛烈な睡魔に襲われ、左右によろめいて走るので後続の仲間からしばしば警笛による注意を受けた。眠気防止に氷水にひたしたびしょびしょのタオルを頭に被り、ヘルメットで固定し猛暑の荒野を走った。しかし、二時間もしない内にタオルはカラカラに乾き、再び睡魔との闘いが始まった。
ハイウェイ路面には二、三十kmごとに大型トレーラーやトラックのパンクや脱輪によるブレーキ痕がついていた。大型車のパンクや脱輪による急停車や蛇行に遭遇したとき、重いハーレーといえどもはね飛ばされる危険があった。「車の流れに沿って高速で走れ、トラックの後につくな、挟み撃ちにあうな、高速で追い越せ」が先導者の口癖だった。
実際、そういう危機一髪の場面に遭遇した。コロラド州山間部の下り坂で、カーブを猛スピードで追い越しをかけてきた大型トレーラーが私を追い越す寸前、突如車体を左右に大きく揺らし蛇行しながら減速していった。前輪のバーストだった。
危うくはね飛ばされるところだった。先導者の言葉が身にしみた一瞬だった。アメリカ大陸を横断しての一番の感激は、旅の後半、睡魔から解放され、果てしない一直線の道路を来る日も来る日も走り抜ける時の爽快さだった。
しかし、爽快に走り続けるうちに別の思いが頭をよぎった。道がまっすぐということは、かつてそこに住んでいたアメリカ先住民の人たちが無慈悲に土地を追われ、生活の場を奪われ、抵抗する者は殺され、犠牲を強いられてきた結果ではないのか、この延々と続く一直線の道路は、かつてインディアンと呼ばれたアメリカ先住民たちの怒りや悲しみが込められた怨念の道ではないのか、そんな思いに駆られながら西へ西へと走り続けた。
バイクツアーを終えた二○○七年の秋は、クリニックの一大転機が待ち受けていた。