第二章 道徳と神の存在

勉は続けて話し出した。

「話は変わって、神についてやけど、神というものがおられるのかどうかは、俺にはなんとも言えん。そもそも、神てなんやねん? その前に、人間はなんで神というものの存在を認識したり、語るようになったんやろ? 俺は俺なりに、ちょっと前に考えたことがあるんや。

人間は日常生活で、いつも巨大な自然現象を見てきた。地震・津波・台風というような、人間の生活に大災害をもたらす、信じられんほどの圧倒的に強力な自然の力を目の当たりにして、大きな恐怖を感じた。

それからまた、朝日や夕日や虹、碧く澄んだ海や遠大な山々、きれいに咲き乱れる花々、木々の紅葉といったような、美しい現象に畏敬の念を持った。

これらを生起させる、生きとし生けるもの以外と言うべきか、生きとし生けるもの以上というべきか、とにかく、人間の能力をはるかに超越した何ものかの絶大な力の存在を感じて、それがいわゆる“神”として認識されるものの原点になったように思うんや」

宗は、「なるほどと思える考えや。続けてくれや」と勉を促した。

「それから、自然現象以外でも、そんなものの存在を感じてきた。普段の生活で、理屈では考えられないようなというか、合理性を欠くような事象、論理的には説明できひんような事象が現れることを否定できひんけど、それも“神”のなせる業として、認識するようになったように思うんや。

要するに、実証はできひんけど、日常生活で、人間の能力を遙かに超えた力を発揮する何ものかの存在を感じて、それを”神”として認識するようになったんやないかと思うんや。その”神”を尊び畏怖することが、信仰というものの根底にあるべきやと考えるんや。

しかし、その神というものが、意図して人間に災いや苦しみや悲しみをもたらすのではないと思う。そうでないと、茂津が言うたように、罪のない善良な人々が、何故、不幸や悲惨な目に見舞われるんか、到底納得できひんやろ。

神が、日常生活の中で、人間の何から何まで全てを支配しているというか、制御しているわけではないはずや。

そやから、自然災害をはじめとして、悲惨な出来事があった時に“神も仏もない”とよう言うけど、それは適切ではないと思う。

それは今言うたように、神というものが、特定の人間に災いをもたらしたり、病気や不幸に陥れたりするというんではないと思うからや。

もし、それらが神のなせる業なら、なんで悪党ではのうて、善良な人たちに災いや苦しみがもたらされるんや、おかしいと思う。それに、世の中のことを観ていると、神なるものを信じる人には災いや苦しみが訪れずに、信じていない人には災いや不幸が訪れるということでもなさそうや。