第二章 道徳と神の存在

「ちょっと前に、この世はもともと地獄で、死後の世界に天国があって、死はその天国へ神に召されることなんやと言うた人もいた。これだけからすると、善良な人が悲惨な目にあって死ぬことがあっても、一応の納得がいく。天国というもんがあるんとしたら、その天国に行けるんやからな。

けど、死は善人にも悪人にも、全ての人に全く平等にやって来るから、悪行の限りを尽くしたような悪党も、死んだら天国に行けるんやろか? 現世で悪行の限りを尽くしたということは、その人が現世で不幸やったからということで天国に行けるんやろか? けど、そんな理屈には到底納得できひん。悪事を働いても、天国に行けるんやったら、悪党になった方が得やというふらちな奴も出てくるかもしれん。

しかし、そもそも天国や地獄なるもんはあるんか? その以前に死後の世界というもんはあるんか? 死は永遠の虚無でしかないんか? 死は絶対に覚めることのない永遠の眠りでしかないのか? 死というもんをどう捉えたらええんか、これもまた俺には分からん。いろんなもんを読んでみたことあるけど、完全に納得できることはなかった。死ぬということはどういうことなんやろとずっと考えてる。

正直なところ、死というものに対する恐怖心はずっと消えへん。そやけど、自分だけが死ぬんやなしに、善人も悪人も、偉人も英雄も、全ての人が平等に死んでいくんやということで自分を納得させてる。そんな自分が情けないと思うこともあるけど、今のところはしゃあない。

理不尽で不平等極まりないこの世の中で、いつかは誰でも死を迎えることだけが唯一平等なんや」

茂津は、「俺も死は恐怖に思うけど、別当が言ったようなことで納得せざるを得ないのかもしれないな」と言った。勉はうなずいて続けた。

「それから、お金が儲かりますようにとか、自分が希望する学校に合格しますようにとか、そんな自分の願いが叶うように、神に祈ったり願ったり頼ったりするのは、おかしいと思う。神に祈っただけで、願いが叶うわけではないやろ。そんなことは、神というものに頼るんではのうて、自分の努力で掴むべきもんやろ。言い換えたら、人間である自分の能力や努力ではどうにもならんことを神というものに願うのなら、まだしもと思うけどな。人事を尽くして天命を待つとよく言われるけど、これには納得がいくように思う。

根本的には、神というものが存在するとしても、それに願わず頼まず、ただ尊び畏怖することが信仰のあるべき姿やと思う。それに、神というものの存否にかかわらず、自然というか森羅万象の営みの前で、人間は謙虚であるべきやし、それを尊ぶべきやと思う。人間であることに驕りを持ってもあかんのや。

信ずれば報われると言うたり、神を信じるということの対価として、いわゆる御利益の類を求めたり、期待するというのはおかしいと思う。何も努力しないで、ただ神に祈ることだけで、願いは叶えられへんということやと思う。

吉川英治が書いた小説『宮本武蔵』の中で、興味深いとこがあった。武蔵が、一乗寺下り松での吉岡一門との決闘に向かう途中で、勝利を願うために、神社に立ち寄るところがある。けど、そこで武蔵は、要約すると“神仏を尊び神仏に頼らず”と言って、神に勝利を祈らずに手を合わせただけで、立ち去って決闘に向かう。そして、武蔵はただ一人で多勢の吉岡一門と死にものぐるいになって戦って、相手を討ち果たすんや。

この神仏を尊び神仏に頼らずということが、信仰というものの根底にあるべきやし、生きていくうえでの指針となるべきもんやないかと思うんや。現実はそう安易なもんではないかもしれんけどな。

これが俺の考えたことや。これまで言うてきたことには自信がないし、正直なところ俺にはよう分からん。しかし、俺は茂津のように、神は存在しないとまではよう断言せん。

人間が作り出した科学が万能の力を持っていて、神など存在しないというのは、あまりにもおこがましいとも思ったりするんや。茂津は、そこまで言うてないけど」

「俺も共感できるなあ。話が永うなってもええから、もっと話してくれよ」と宗が応じた。